キューバ危機
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キューバ危機(―きき、The Cuban missile crisis)は、アメリカのすぐ南に位置するキューバにおいて、1962年10月15日から13日間続いた米ソ間の冷戦が頂点に達して核戦争の危機を招いた国際緊張の事である。
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[編集] 概要
1959年1月のキューバ革命後、徐々にアメリカとの距離をとり始めていたキューバのカストロ革命政権は、共産圏との接触を開始した。1962年、ソ連は兵器の提供の代りに核ミサイルをキューバ国内に配備する『アナディル作戦』を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承すると、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。
1962年7月から8月にかけてソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、アメリカは偵察飛行を強化していた。同年10月14日アメリカの偵察機U-2がアメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル(MRBM)の存在を発見、さらにその後三つの中距離弾道ミサイル(IRBM)を発見した。アメリカ政府は激烈な反応を示し、ジョン・F・ケネディ大統領はエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第一段階として海上封鎖でソ連船の入港を阻止した。そしてNATOや米州機構の指導者たちに状況を説明し、彼らの支持を得た。10月22日、ケネディはテレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。さらにその後アメリカ軍部隊へのデフコン2(準戦時体制)を発令、ソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソー、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置き、ソ連も国内のR-7やキューバのR-12が発射準備に入った。その一方でアメリカはソ連へのミサイル撤去の交渉を開始する。その際10月25日の緊急国連安全保障会議でのアメリカ国連大使アドレー・スティーブンソンが、ソ連国連大使ヴァレリアン・ゾーリンにキューバのミサイル基地を撮影した写真を示し、核ミサイルの存在を認めるよう迫った有名なやり取りは、当時の米ソ間の緊迫感を示している。
10月27日にU2偵察機がソ連軍の対空ミサイルで撃墜されるなど緊迫情況が続く中、ワシントン時間10月28日午前9時、フルシチョフはモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。フルシチョフはケネディの条件を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、ケネディもキューバへの武力侵攻はしないことを約束、その後1963年4月トルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了した。
キューバのカストロ議長は、この措置に激怒した。キューバが国家を上げて対アメリカ戦に備えていたのにも関わらず、キューバの頭上で政治的な妥協を、米ソで決定してしまったからである。一方、フルシチョフの回想によれば、興奮したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫ったとされ、ソ連の方も、核戦争をもいとわない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになっていった。
その後キューバに対するアメリカの介入も減少し、冷戦体制は平和共存へと向かっていくことになる(デタント)。この事件を教訓とし、首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に引かれた。一方、カストロは、米ソの頭越しの妥協に不快感を示し、ソ連への不信感を募らせていくことになる(チェコ事件で和解)。
冷戦後わかったことは、キューバ危機の時点でキューバに核ミサイルが数十基配備済みであり、臨検はほとんど効果がなかったことである。米国はその危険性に気付かず、圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。 もしフルシチョフの譲歩がなく、ミサイル基地を空爆していたら、残りの数十基のミサイルが発射され、世界は第3次世界大戦に突入していた恐れが高い。
実はこの時点で米軍もソ連軍も相手を壊滅させるほどの核兵器がなかった。そのため中距離ミサイルを米軍はトルコに、ソ連はキューバに配備した。
[編集] 解決までの経緯
なぜソ連のフルシチョフがキューバからのミサイル撤退を受け入れたかについては様々な説がある。よく聞かれる説には次のようなものがある。
ワシントン時間10月28日午前9時にケネディが緊急テレビ演説をするという情報がフルシチョフのもとに入った。そしてその演説に先立ってケネディは教会で礼拝をするという。開戦前のアメリカ大統領は開戦を告げる前に必ず礼拝に行くと聞いていたフルシチョフは、ケネディが開戦を決意したと勘違いしてミサイル撤退を決意した、というものである。
しかし、当時は情報機関の間では様々な不確実な情報が飛び交っており、キューバ駐在のソ連大使アレクサンダー・アレクセーエフのところには「数時間以内にアメリカが武力侵攻するという確実な情報」が届けられ、激高したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫ったとされる。しかし、フルシチョフはこの情報はアメリカの情報機関がソ連の情報機関に意図的に流したデマだとして信じなかった。ケネディが教会で礼拝をするという話を聞いてフルシチョフがあわててミサイル撤退を決意したなどというのは、三流紙のゴシップ程度の話に過ぎない。
ケネディの側近だったセオドア・C・ソレンセンの著書「ケネディ」では、キューバ危機の米ソ対決の決着が着いたのは、ロバート・ケネディ司法長官とアナトリー・ドブルイニンソ連駐米大使が、ABCネットワークの記者ジョン・スカリーの仲介で深夜のワシントン市内の公園で密かに会って話し合ったときであったことが記されている。その会談で実際にどのようなやり取りがなされたかは具体的には書かれていない。しかし、当時のソ連の権力機構から考えて、駐米大使に決定的な権限が与えられていたとは考えられず、会談の存在が事実だとしても、この会談が問題解決に決定的な役目を果たしたとは考えられない。
真実は、上記のようなナゾめいた話とは程遠い単純なものである。当時のソ連の軍事力はアメリカの軍事力には遠く及んでおらず、両国の全面戦争という事態になれば、ソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの敗北するのは決定的であった。ナチスドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフはこのことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが国際政治の現実であったと考えられている。
この二年後にフルシチョフは失脚することになるが、彼が更迭された中央委員会総会では、キューバ危機におけるアメリカへの「譲歩」が非難されることになる。
また、このキューバ危機を教訓として2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがロシアとアメリカ間に始めて設置された。
[編集] 映画
[編集] 関連項目
- 世界終末時計
- 部分的核実験禁止条約
- ロバート・マクナマラ
- リスキーシフト
- Mega stor fisse dér!
[編集] 外部リンク
[編集] 日本語サイト
[編集] 英語サイト
- Declassified Documents, etc. - Provided by the National Security Archive.
- Transcripts and Audio of ExComm meetings - Provided by the Miller Center's Presidential Recordings Program, University of Virginia.
- Forty Years After 13 Days - Robert S. McNamara.
- Tapes of debates between JFK and his advisors during the crisis
- Cuban Missile Crisis Reunion, October 2002
- The World On the Brink: John F. Kennedy and the Cuban Missile Crisis
- 14 Days in October: The Cuban Missile Crisis - a site geared toward high-school students
- Nuclear Files.org Introduction, timeline and articles regarding the Cuban Missile Crisis
- Cuba Havana Documentary Bye Bye Havana is a documentary revealing what Cubans are thinking about today
- Annotated bibliography on the Cuban Missile Crisis from the Alsos Digital Library.