サッカー戦争
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サッカー戦争(さっかーせんそう、西:Guerra del Fútbol、1969年)とは、サッカーの試合での遺恨がきっかけとなって、エルサルバドルとホンジュラスとの間で勃発した戦争。
また、レシプロ戦闘機同士の空中戦や撃墜が起こった最後の戦争としても知られている。
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[編集] 開戦に至る経緯
1960年代におけるエルサルバドルとホンジュラスとの間の外交関係は、国境線問題や、約30万人にもおよぶエルサルバドル系農民のホンジュラス国内不法滞在問題などを巡り、悪化の一途を辿っていた。このため、充分に戦争が起こり得るだけの火種が既にくすぶっていたのであり、「サッカーが原因となった『史上最も馬鹿らしい戦争』」という巷間に流布しているイメージは、実のところ必ずしも適切なものとは言えない。
ただし、くすぶっていた火種を一気に燃え上がらせる油を注いだのは、間違いなくサッカーである。1969年6月27日、メキシコシティで行われたサッカー・ワールドカップメキシコ大会の予選準決勝プレーオフ「エルサルバドル対ホンジュラス戦」は、3-2でエルサルバドルの勝利に終わった。
これを契機に激化したホンジュラス国内の反エルサルバドル感情を背景として、試合終了後、ホンジュラス政府は国内に居住する全てのエルサルバドル人不法入国者を対象に強制送還を開始した。これに対し、エルサルバドル政府はホンジュラス政府を公式に非難、両国の国交は断絶した。
[編集] 戦争の展開
メキシコシティでの試合から約2週間後の7月10日、エルサルバドル空軍のF4UコルセアとP-51Dの混成編隊は、ホンジュラスの首都テグシガルパ郊外の空軍基地を空襲し、戦端が開かれた。両国空軍のF4Uコルセア戦闘機同士が激しい空中戦を繰り広げ(ホンジュラス側がエルサルバドル側を3機撃墜。レシプロ機によるレシプロ機の撃墜は、これ以降は2007年2月末までのところ、世界的にも発生していない)、空爆の応酬が続く中、エルサルバドル側はさらに7月14日、陸軍歩兵部隊(兵力約12,000人)を投入し、ホンジュラス領内に侵攻した。
[編集] 戦争の終結
この戦争による双方の死者は合計数千人にものぼった。米州機構(OAS)が調停に乗り出した結果、7月29日にエルサルバドル陸軍が撤退を完了し、停戦が成立した。しかし両国関係の修復にはさらに10年以上の歳月を要した。1980年10月30日、両国はようやく平和条約を締結した。同年11月のワールドカップ地区予選決勝で、12年ぶりのサッカー対戦が実現した。試合は0-0の引き分けに終わり、両国揃って2年後のワールドカップ・スペイン大会への出場を果たした。
[編集] その後
戦争の主因の1つである国境問題に関しては、平和条約締結後に国際司法裁判所に付託した。国際司法裁判所は、1992年9月11日に新たな国境線の案を提示。両国はこれを受け入れることを表明したが、実際の作業は難航した。
2006年4月18日、両国の国境地帯に位置する街で式典が開催された。出席したエルサルバドル大統領エリアス・アントニオ・サカ・ゴンサレス(Elías Antonio Saca González)とホンジュラス大統領ホセ・マヌエル・セラヤ・ロサレス(José Manuel Zelaya Rosales)は、国境線375kmを画定する文書に署名した。これにより、国境問題は終結した。
[編集] 関連書籍
- リシャルト・カプシチンスキ『サッカー戦争』 北代美和子 訳、中央公論社、1993年、ISBN 4120022358