シタテルヒメ
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[編集] 名称
[編集] 両親
- 『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の妹。
- 『日本書紀』では顕国玉の娘。
- 先代旧事本紀『地神本紀』では、大巳貴神と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹。
- 『ホツマツタヱ』では、伊奘諾尊(タカヒト)と伊奘冉尊(イサコ)の間に生まれた長女昼子(ヒルコ姫)が、結婚した後に天照大神の妹神として名乗ったとされている。
『古事記』の大国主神の系譜においては、アヂスキタカヒコネの同母妹と記されている。そのため、高比売(高姫)はシタテルヒメの別名とされるが、姉妹の別神とする解釈もある。先代旧事本紀『地神本紀』では、大巳貴神と高津姫神の子、都味歯八重事代主神の同母妹に高照光姫大神命がおり、これと混同された可能性もある。
[編集] 概要
『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの葬儀を行った。その葬儀にアヂスキタカヒコネが訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜んだ。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行った。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹であるとしている。
鳥取県の倭文神社は、現在は建葉槌命が主祭神となっているが、社伝にはシタテルヒメに関するものが多く、大正時代まではシタテルヒメが主祭神であると考えられていた。倭文神社内の塚がシタテルヒメの墓であると考えられていたが、発掘により経塚であると判明した。
[編集] シタテルヒメの原像
記紀において、卑弥呼の原像をもとに、天上界ではアマテラス(天照)、下界ではシタテル(下照)ヒメとして記載したとの説もある。そういう意味で、シタテルヒメは卑弥呼をより実像に近い形で記されたものとも解釈できる。
[編集] 異説・俗説
『古事記』に、天日矛(アメノヒボコ)が妻(阿加流比売神)を追って新羅から上陸した、という記述がある。逃げた阿加流比売神が身をひそめたのは「難波の比売碁曾社」(現大阪市東成区東小橋の比売許曽神社)であるが現在、この比売碁曾社の主祭神は下照比売命である。これにより阿加流比売神とシタテルヒメを同一視し、垂仁天皇の条に登場する清彦は、天日矛の四代後とされており、天日矛が来たのは3世紀前半となり、魏志倭人伝に描かれた卑弥呼の年代と一致するとする説を唱える者もある。
兄弟となるアジスキタカヒコネについては、各地の神社の伝承から判断して、事代主、一言主、大物主、大山咋神などがその異名同神の可能性が高い。そのアジスキタカヒコネあるいは父神の大国主、母神の多紀理毘売との組み合わせから判断して、市杵島姫(イチキシマヒメ)(宗像三女神、弁才天と習合)、ミツハノメ、アメシルカルミズヒなどもシタテルヒメの異名同神と考える者もいる。
『ホツマツタヱ』では、和歌の女神和歌姫として記されており、天照大神の妹として稚日女尊(ワカヒルメ)とも名乗り、他界するとき、天津国玉(アマクニタマ)の娘の小倉姫(オグラ姫)に、和歌の奥義を記した雲奇文(クモクシ文)を授けて、下照姫を襲名させたとされている。神上(かみあ)がってから後に、歳徳神と称えられたと記されている。
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