シップソーンパンナー
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シップソーンパンナー(สิบสองปันนา)は、ラーンサーン、ラーンナー等と並ぶ、山地タイ人による「ムアン(国家)」の一つ。
シップソーンパンナーの建国は、1180年、パヤー・スンカムンがムアン・チエンフン(景洪)で王を称したことを嚆矢とする。山地タイ人諸国のうちでは最も北方に位置し、13世紀にモンゴル帝国が大理国を併合して以降、中国勢力と直接境を接するようになった。
歴代の王たちは、中国王朝より土司の称号を受けることにより、国内や近隣諸国に対して自身の権威付けをはかった。例えば、13世紀にモンゴル帝国がラーンナーに侵攻した際、シップソーンパンナーはモンゴルに服属した。モンゴル勢力は、1298年、ツェンフンに「徹里軍民総管府」を置き、シップソーンパーンナー王にその長官職である「総管」号を与えた。また、中国で明朝が勃興すると、雲南の支配権を巡るモンゴルの梁王国と明との抗争に巻き込まれたのち、1382年から明に服属することになった。明は1384年にツェンフンに車里軍民宣慰使司を置き、シップソーンパンナー王に、代々、その長官職である「宣慰使」号を授与した。
16世紀にビルマタウングー王朝が成立すると、東方への攻勢をつよめ、山地タイ人諸国はその支配下に入った。シップソーンパンナーでは、ビルマへの貢ぎ物を集める単位「パンナー」がメコン河の東岸に6、西岸に6、あわせて12設定され、これ以後、「シップソーンパンナー(12のパンナー)」がこの国の正式呼称となった。以後、シップソーンパンナーは、中国に加え、ビルマにも臣属することとなった。
この時ビルマから小乗仏教やビルマ式文字が導入された。このビルマ式文字は後にタイ・ルー語に併せて改良され、タイ・ルー文字を生み出すことになる。
のちシャム(現在のタイ王国)ではラーマ1世がビルマ勢力のタイ族の国家からのからの駆逐を目指して、当時ビルマの支配下にあったシップソーンパンナーを、ラーンナー王朝の王、カーウィラに攻撃させた。カーウィラはこの時、タイ・ルー族を奴隷して国内に連れ、国内に移住させた。これはラーンナー王国内での人的資源を確保するためである。このラーンナー(正確にはシャム)による支配は長く続かず、ラーマ4世、5世の次代に行われた一連の領土割譲により、シャムはシップソーンパンナーを失う。
19世紀、列強諸国が東南アジアに勢力圏を設定した際には、シップソーンパンナーは「中国の領土」とされたが、その後も国王が清朝、中華民国より土司の称号を受けて名目上中国に属し、内政は従前どおりの体制が継続する、という状態がつづいた。1956年、中国人民政府のもとで行われた社会改造により、旧来の国家組織が解体され、45代に渡って続いた王国は滅亡した。
なお、王家の姓「刀」(タオ)は王を意味するタイ語「チャオ (เจ้า) 」と関連すると考えられる。