シツ都
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郅都(しっと、ピン音 ; Zhì dōu、生年不詳 - 紀元前146年?)は、前漢前期の人で、景帝時代の酷吏と謳われた政治家の一人。または“酷吏蒼鷹”(獰猛な猛禽類)とも呼ばれて周りから恐れられた。
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[編集] 略要
[編集] 郅都のあらすじ
河東郡楊県(現/山西省洪洞県南部)の人である。彼は若い時から志を抱き、文帝時代に郎中(宮中侍従官)として仕官した。その間に独自で法律を徹して貪欲的に学び、また職務に忠実だったために、太子の劉啓(景帝)から篤く信頼された。やがて文帝が崩御して、景帝の世になると、彼は中郎将(郎中の長官)に任命され、帝の腹心となった。同時に彼は気性が激しく、自分が思ったことは、仮(たと)え天子であろうが、皇族・貴族でも無遠慮に意見や直言を議論的に強引に叫んで、彼等を屈服することは日常茶飯事だったという。
[編集] 郅都の台頭
ある日、景帝は寵愛する邯鄲の人である賈貴人(趙敬粛王劉彭祖と中山靖王劉勝の生母)を伴って、上林菀へ狩りに出かけて、郅都も同伴した。それから賈貴人が厠に用を足した時に、突然野生の猪が彼女がいる厠に猛進した。景帝はこれを見て顔色を変えて「郅都よ、わしの妻が危うい。直ちに救助せよ」と述べた。だが、郅都は「陛下!お静かに。ご愛妾が失われようとも陛下にはたくさんのご愛妾がございます。ですが陛下はたったお一人であります。また皇族による呉楚七国の乱が鎮圧されたといえど、匈奴の脅威もあります。また陛下の身になにかあった時は漢の祖廟は、ご生母の竇太后はどうなされまするか?」と直言した。帝はこれを聞いて難色を為したが、やがて猪が厠から出て来て森林に立ち去ったという。幸い賈貴人は無事だった。後に彼女が郅都の直言を侍女から聞いた時に彼女は目と眉を吊り上げて怒り出し「女を男の奴隷だと思っている郅都は絶対に許せない」と言ったという。だが、景帝の生母の竇太后はこれを聞いて「郅都は稀に見る忠臣です」と召し出して百斤を与えた。これ以来、郅都は天子や太后の信頼が絶大となり重用されたという。
[編集] 郅都の出世の始まり
ある時、斉の済南郡の有力豪族の瞯(かん)氏は一門の数が三百余人に上り、彼等は“任客”と称して法律を平気で犯し、また犯罪者を堂々と匿ったという。また勢力が強く狡猾だったために代々の済南郡太守は全く手を出せない有様であった。このことに頭を抱えた景帝は「よし、瞯氏が飽くまでもわしに逆らう気なら、こっちも考えがある。直ちに郅都を呼べ」と述べて、郅都を召し出して「郅都よ、済南郡の太守に命じる。そちは無法豪族である瞯氏を徹底的に取り締まれ、わしに逆らう者には容赦なく斬り捨てよ」と厳命して、郅都は済南郡に赴任した。郅都は着任すると帝の言葉通りに、瞯氏一門のうち最も悪辣な一家を皆殺しにして晒しものにした。他の瞯氏一門に対しては、連座で財産を没収し庶人に落としたという。その後も彼は不正を見逃さず、徹底的に取り締まった。果して済南郡が一年前後で治安が治まり、人々は道に落ちてるものを拾わないほど、郅都に畏敬したのであった。それは郅都の上司であるはずの青州刺史でさえ、郅都に遠慮して恐れたのである。だが郅都は勇猛果敢で、公平で質朴な人柄で無私で自邸には財産はあまりなかったという。また彼は賄賂を徹底的に拒否していた。これは後の同じ酷吏の王温舒とは雲泥の差があったという。また、彼の部下が「郅都さま、こんな苛酷に業務に没頭されるとお体が祟られます。たまにはご家族に目を向けられたらいかがでしょうか?」と案じた。だが郅都自身は「わしはまだまだやることがあるんだ」と述べ、また「わしは今の役目に猛反対した両親を強引に説き伏せて、今のわしがある。だから天子のために死を恐れんぞ。決して妻や息子のことを言葉にするでないぞ」ときっぱりと自分の凄まじい信念を述べたという。彼は引き続き法務を苛酷に適用して、過労死するほどの勤務意欲を貫き通したという。またある時、郅都とは対照的で南陽の人である寧成は此度、済南郡の都尉(警備司令官)として郅都を補佐するために赴任した。だがこの寧成は王温舒と同じように狡賢く残忍な男であった。寧成赴任の報を聞いた郅都は「仮え寧成が貪辣な男であろうと、業務上は仲良くやらねばならん。またわしは私利に貪ることが無いから、寧成もわしの粗探しはできんであろう」と述べた。郅都に初めて会見した寧成は噂通り、横柄で傲慢だったが郅都は笑って軽く受け流して寧成のために着任祝いの酒宴を開いたという。
[編集] 郅都の栄華
郅都の勤務状況を聞いた景帝は紀元前148年に彼を召喚して、中尉(警視長官)に昇進させた。そして景帝は間もなく、外戚の禍を断つために、前・皇太子劉栄の母方の栗一族を郅都に命じて全て誅滅させていると、『漢書』「衛綰伝」に詳しく記されている。つまり、景帝はそのために郅都を呼び戻して中尉に任命したのである。彼は歴戦の猛者である丞相の条侯周亜夫に対しても、拝礼はせず会釈をするのみであったという。そして、彼が“酷吏蒼鷹”と恐れられるように裁く相手が皇族であろうと、漢の元勲の末裔であろうと容赦なく厳格かつ苛酷に取り調べたという。そのために皇族も貴族も郅都を直視できず、彼に会うと目を逸らしたという。
翌年に、景帝の長男で廃太子の臨江閔王は前年に生母の一族が郅都によって皆殺しにされたこともあり、殆ど都に参内せずに王宮で側室と戯れているばかりか、また賓客とは天下国家の事項を議論したという。その挙句に臨江の領外に祖廟を建てる法律違反を犯した。そのため長男の不孝行為に大激怒した景帝はついに臨江閔王を召喚して、腹心の郅都に自分の息子に峻烈な取り調べを命じた。郅都は峻烈に、天子の長男である臨江閔王を容赦なく裁いて彼のの精神や神経をズタズタに引き裂いたのである。これを見兼ねた魏其侯の竇嬰(竇后の従子)は臨江閔王が生まれた時から太子時代までのお傅役だったために見るに忍びず、家臣に命じて“刀筆”(刃物の筆)を秘かに手渡して臨江閔王の無実の釈明文の手助けをさせたという。郅都によって憔悴し切った臨江閔王はそれを記し終わると牢番役に渡して、その刀筆で悲惨な自決をして果てたという。
[編集] 郅都の転落とその意外な末路
さすがの景帝も長男のこの行為に驚愕した。また劉栄の祖母の竇后はこの報を聞いて怒り狂ってしまった。また賈夫人が自分が女として侮辱された怨みを晴らすために姑の竇太后にこの時ぞと「郅都と申す輩は男尊女卑と決め付けている人間の皮を被った獣ですわ。今のうちにご処分なさいませ」と彼女の憎むべき郅都を讒言したこともあって、竇太后はかつて信頼した郅都に裏切られた思いで直ちに孫を死に追い詰めた彼を召し出すように厳命した。だが、景帝は郅都を信頼していたために、取り敢えずは免職にし、郅都は妻子と郷里の楊に戻り隠棲生活をした。だが郅都を信頼していた景帝は、秘かに勅使を出して彼に匈奴と国境にある雁門郡の太守として自邸から直接、赴任させたという。また職務では独断で遂行してよい特権を与えられたという。一方、匈奴のほうも誰もが郅都を恐れ戦(おのの)いていたために、念のために郅都の木人形を作らせて、それを騎射する試みをしたが誰も恐れてできなかったという。そのために匈奴は北方に移動して、郅都が召喚されるまで雁門郡に攻めなかったという。だが、孫の非業の死に復讐心を燃えた竇后は息子に向かって執拗に小さな法律違反の過度で郅都を極刑するように迫ったという。無私無欲で人望がある郅都を庇っていた景帝も「郅都は稀に見る忠義者ですが…」と述べながら母に根負けして、ついに郅都を都に召喚して市場で彼を斬首に処し、その妻と息子達も皆殺しとしたのである。この行為は晁錯の最期と同様に景帝の冷酷非情の面を窺うことができる。
[編集] 後世の郅都の評価
最後に孔子の法律の矛盾に対する言葉を引用する。
- ― 法律によって指導し刑罰によって統治すれば、
- 民の心は荒んでしまい、それを逃れる道を探し道徳心を失う。
- だからこそ、仁徳を施し礼節によって治めれば、
- 民は道徳心を取り戻し、ゆとりのある秩序の世の中になる… ―
…と孔子は賄賂問題を含む法律の問題点を案じて述べている。