王温舒
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王 温舒(おう おんじょ、ピン音 ; Wang Wenshu、生年不詳 - 紀元前104年)は、前漢の武帝時代の代表格である冷酷非情な“酷吏”と謳われた官僚である。長安近郊の陽陵県(現/陝西省咸陽市東部)の人である。
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[編集] 略要
[編集] 若き日の王温舒
若い頃の彼は札付きのチンピラだったらしく、盗賊仲間と共に墓の財産目当てで、その発掘を繰り返し、また喧嘩で相手を撲殺したことがあるという。後に宿場役人の責任者の亭長として定職に就くが、たびたび問題を起こし解任を繰り返した。やがて、長安城内の獄史(牢役人)の下級官吏として罪人に拷問を加えて有無を言わせない手腕を買われ、当時の廷尉だった張湯(張安世の父)に仕え、その事務官として務めて法律の知識を学んだ。後に上司の張湯が御史大夫(副宰相)に昇進し、彼も御史(検察官)に進み、各地にいる反徒(謀反人)や盗賊を殺戮し次第に認められた。これが彼の出世の始まりであった。後世の法律長官は彼のやり方を大いに模倣したという。現在の中国の幹部国家員でも王温舒のやり方を真似ている人が結構いるという。
[編集] 地方官吏時代の王温舒
やがて、斉と趙に隣接する広平郡の都尉(警備長官)に昇進し、赴任した現地でやり手の壮敢の下役人や、有能な罪人を恫喝して自分の部下とした。そして盗賊と反従を取り締まり、殺害したり逮捕したりした。また有能な部下が悪事を重ねても、それを黙認した。また落度があり、上司の王温舒に逆鱗を触れた部下に対しては、本人やその一族を皆殺しする行為をしたという。やがて広平郡には道の落ち物を拾わないほど秩序が保ったという。その手腕を聞いた武帝は彼を絶賛し、都に召還し自ら今度は現在の河南省中心の河内郡太守に昇進させた。
やがて紀元前121年秋9月に河内に赴任した王温舒は都尉時代に既に現地の土豪や盗賊を調査済みだったという。やがて豪族や反従らを捕獲し、都にいる武帝に裁きの申請の急使を出し、わずか三日で武帝の認可を受け取った使者が戻ったため迅速に遂行できた。こうして重罪者は三族皆殺しの刑に処し、軽罪者には本人のみを処刑し、全財産没収に処した。こうして大処刑を執行し、刑場には多くの流血に染まったという。河内の人々は震え上がり、12月の冬の終わり頃には夜間に外出者はおろか犬の遠吠えさえも全く聞こえなかったという。だが、当時は処刑期間が冬(10月~12月)限定のために、新たな罪人がいても処刑を執行できず「むむう…これではわしは罪人らを処刑できんではないか!」と王温舒は常に悔しがったという。これは、天性的な酷薄さで殺戮を好む王温舒の冷酷非情な性格を表していたのである。
[編集] 王温舒の栄華
都の武帝は王温舒を功績を聞いて「あやつは天性的な有能な男だ。よし再び召し出せ!」と言い、今度は彼を都を統轄する中尉(警視長官)に昇進させた。ここでも彼は都尉・太守時代と同様であった。今度は札付きの悪徳官僚を恫喝して、強引に転勤させ採用した。河内の楊皆と麻戊と関中の楊贛と成信らであった。当時の王温舒は元内史で南陽太守の義樅(武帝の側室の兄)とかつての上司の張湯らを恐れて、思いままに豪腕が振るえなかった。だが紀元前115年に張湯が悪事を問われて自決し、その嫡子の張安世が継ぐと、王温舒は廷尉に任命された。だが後任の尹斉が武帝の逆鱗に触れ身を滅ぼすと再度、王温舒が中尉に任命された。彼は相変わらず教養や品格が欠如していたために、また仕事に熱心でないために適性でない廷尉を免職されたのである。また、長安付近は王温舒の郷里でもあり、再び生き返ったように職務に励んだのである。
また、王温舒は権力者に諂い、その悪事を進んで揉み消し、反対に勢力が無い皇族や貴族の高官に対しては自分の意向に逆らう者は些細な罪で容赦なく吊るし上げて、投獄したという。彼の部下達の邪悪で陰険な者が多く、徹底的な残忍獰猛な拷問で、多くの罪人を獄死に追い詰めたのであった。また、部下達は没収した財産を独り占めにして、好き放題にやり周りから腫れ物扱いにされるように見られたと言う。
[編集] 王温舒の無惨な末路
紀元前111年、王温舒は甌越(東甌)遠征に従軍した。やがて帰還し、自分が提案した制度が武帝の勘気に触れて免職と相成った。しばらくして、武帝が天台閣を建てる時に人夫が足りず、その時の王温舒が「軍卒によって労役を逃れてる者を再調査すれば、人夫は数万に膨れ上がる」という上奏で、今度は少府に任命された。やがて右内史に転任したが、後に法に触れて免職された。紀元前105年、今度は反従と盗賊の横行がたまたま大規模になったために、再登用され今度は右輔(右扶風、長安西部の総司令官)に任命された。同時に中尉も兼ねた。翌年に武帝は大宛(現/フェルガナ地方)遠征を行なうと発表した。その時に有能な官僚が召還されるために、王温舒の腹心の華成がどうしても大宛遠征を嫌がり上司の王温舒と相談して兵役免除の改竄の手続きをした。また王温舒は賄賂で騎兵の義務がある者を匿ったり、公用金を秘かに着服するなどの悪事を重ねた。そのために王温舒に怨みを持つ者が武帝に王温舒を告訴した。事の事態を知り、王温舒を信頼し、その度重なる悪事で彼に裏切られた武帝は果して大激怒して王温舒の調査を命じ、直ちに処刑するように勅命を出した。このことを知った王温舒は「これでわしも終わりだ。おそらく今の法では三族以上の皆殺しの刑に値するだろうな…」と洩らし、彼は自邸で自決して果てた。彼の家族を初めとして、妻と二人の弟の妻…そして息子とその妻(当人から見れば嫁)の一族が罪に問われ、刑場で五族誅滅の刑を受けて極刑され、その首級は市場で晒し物になったという。
その有様を見た光禄勲の徐自為が「嗚呼…古来には三族誅滅(当人と妻子、父母、兄弟を処刑する罪)の死刑制度だったが、王温舒の場合は度重なる悪事のために一挙に五族誅滅だとは…悲しいことじゃ」と、思わず洩らしたと言う。おそらく若き司馬遷が当人から聞き出したと思われる。
また、王温舒のような酷薄な官僚が治安を取り締まらせた人物が多いのは武帝時代の最大の特徴と見るべきであろう。何故なら武帝自身が儒教よりも法治崇拝者であり、自分に刃向かう者には王温舒などのような“酷吏”を要職に就けて全国を取り締まらせた中央集権に全力を挙げた専制君主でもあり、独裁者でもあった。ただ、武帝は気まぐれなところもあり、些細なことで王温舒を解任したり、最後は五族誅滅によって王温舒を葬った冷酷非情な面を備えていた。これは王温舒だけではなく、義樅・張湯らも武帝の気まぐれで身を破滅したのである。ただ、杜周は王温舒らを反面の戒めとして、最後まで生き残り武帝の気持ちを熟知し、廷尉・執金吾(中尉)を歴任し、最終的には御史大夫まで昇り、紀元前94年に天寿を全うしたのである。杜家は代々高官として繁栄したということである。それだけに、武帝に仕えるのはかなりの困難と精神力が要求されたのである。
[編集] その他の王温舒の事項
横山光輝の史記列伝にて『冬の月』のタイトルで前編・後編で王温舒を主人公とした記述をわかり易く描かれている。これは横山による現在の日本でも国家公務員による不祥事が古代中国と同様にパターンが繰り返すことが多いというメッセージ性が含まれてる見方が伺える。
[編集] 資料
『漢書』(巻九十 酷吏伝第六十) 王溫舒,陽陵人也。少時椎埋為姦。已而試縣亭長,數廢。數為吏,以治獄至廷尉史。事張湯,遷為御史,督盜賊,殺傷甚多。稍遷至廣平都尉,擇郡中豪敢往吏十餘人為爪牙,皆把其陰重罪,而縱使督盜賊,快其意所欲得。此人雖有百罪,弗法;即有避回,夷之,亦滅宗。以故齊趙之郊盜不敢近廣平,廣平聲為道不拾遺。上聞,遷為河內太守。
素居廣平時,皆知河內豪姦之家。及往,以九月至,令郡具私馬五十疋,為驛自河內至長安,部吏如居廣平時方略,捕郡中豪猾,相連坐千餘家。上書請,大者至族,小者乃死,家盡沒入償臧。奏行不過二日,得可,事論報,至流血十餘里。河內皆怪其奏,以為神速。盡十二月,郡中無犬吠之盜。其頗不得,失之旁郡,追求,會春,溫舒頓足歎曰:「嗟乎,令冬月益展一月,卒吾事矣。」其好殺行威不愛人如此。
上聞之,以為能,遷為中尉。其治復放河內,徒請召猜禍吏與從事,河內則楊皆﹑麻戊,關中揚贛﹑成信等。義縱為內史,憚之,未敢恣治。及縱死,張湯敗後,徙為延尉。而尹齊為中尉坐法抵罪,溫舒復為中尉。為人少文,居它惛惛不辯,至於中尉則心開。素習關中俗,知豪惡吏,豪惡吏盡復為用。吏苛察淫惡少年,投缿購告言姦,置伯落長以收司姦。溫舒多諂,善事有勢者;即無勢,視之如奴。有勢家,雖有姦如山,弗犯;無勢,雖貴戚,必侵辱。舞文巧,請下戶之猾,以動大豪。其治中尉如此。姦猾窮治,大氐盡靡爛獄中,行論無出者。其爪牙吏虎而冠。於是中尉部中中猾以下皆伏,有勢者為遊聲譽,稱治。數歲,其吏多以權貴富。
溫舒擊東越還,議有不中意,坐以法免。是時上方欲作通天臺而未有人,溫舒請覆中尉脫卒,得數萬人作。上說,拜為少府。徙右內史,治如其故,姦邪少。坐法失官,復為右輔,行中尉,如故操。
歲餘,會宛軍發,詔徵豪吏。溫舒匿其吏華成,及人有變告溫舒受員騎錢,它姦利事,罪至族,自殺。其時兩弟及兩婚家亦各自坐它罪而族。光祿勳徐自為曰:「悲夫。夫古有三族,而王溫舒罪至同時而五族乎。」溫舒死,家絫千金。