ジャン・ガストーネ・デ・メディチ
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ジャン・ガストーネ・デ・メディチ(Gian Gastone de' Medici, 1671年 - 1737年7月9日)は、メディチ家最後のトスカーナ大公である(在位:1723年 - 1737年)。
彼はコジモ3世・デ・メディチとマルゲリータ・ルイーザ・ドルレアンスとの息子である。父の死によって、52歳で第7代トスカーナ大公となる。当時、既にトスカーナ大公国は衰退の極みにあり、経済は疲弊し財政は破綻していた。ジャン・ガストーネは、それまで自堕落で酒びたりの生活を行っていたため、誰も彼に期待する者はいなかった。
ジャン・ガストーネは即位当初は抑圧的だった父の姿勢を改め、減税や教会の政治への関与を排除するなどの改革を開始したが、財政や経済は好転せず、彼は次第に国政への関心を失っていった。1729年以降は、再び自堕落な生活に戻ってしまい、ピッティ宮殿に引き篭もり、一日の大半をベッドの上で過ごすという体たらくであった。1737年、66歳でジャンは死去した。これによって、少し後に死んだ姉のアンナ・マリーア・ルイーザを除けば、彼でメディチ家の主流は途絶えたことになった。
彼の死後、大公位を交代させるため、トスカーナの人々に相談する事すらせず、欧州列国の選択により、大公国はロートリンゲン(ロレーヌ)公フランチェスコ・ステーファノ(フランツ・シュテファン。ハプスブルク家のマリア・テレジアと結婚し神聖ローマ皇帝となる)のものとなった(当初はナポリ王となるカルロ・ディ・ボルボーネに割り当てられる予定だった)。このようにして、トスカーナ大公国は事実上ハプスブルク帝国の一部となった。ただし、トスカーナ大公国は、コジモの希望によりオーストリア帝国の領土には組み入れらず、あくまでも独立した国家とされた。これがコジモが最後にして唯一、トスカーナ大公国に残した功績である。
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