ナポリ王国
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ナポリ王国(ナポリおうこく、Regno di Napoli)は、イタリア統一前の国家の一つで13世紀から19世紀にかけて存在した。カンパニア州、カラブリア州、プッリャ州、アブルッツォ州、モリーゼ州、バジリカータ州及び、現在のラツィオ州の一部(ガエータ、カッシーノ)を含んでいた。
[編集] 略歴
「ナポリ王国」が実質的に生まれたのは13世紀の終わりのシチリアの晩祷による革命の結果で、シチリア王国(まだ南イタリア全域を包含していた)が二分され、シチリア島はアラゴン王国の支配下に、イタリア半島南部はフランス王家カペー家の分家アンジュー家(1268年から南部の支配者)の支配下になったからである。両者はシチリア王国の「称号」を譲らずに、それぞれ便宜的に「灯台のこちらのシチリア王国」(半島側、首都はナポリ)と「灯台のあちらのシチリア王国」(シチリア島側)と呼んでいた。間もなく、半島側に「ナポリ王国」の呼称が普及して、何度か中断もあったものの19世紀に両シチリア王国が建国されるまで続いた。
ナポリ王国は1442年までアンジュー王家の元にあったが、その後はアラゴン王家に移った。ナポリ王国の王位継承問題はこの後も尾を引き、やがてイタリア全土を巻き込むイタリア戦争勃発への端緒となった。
きわめて短期間のフランスの支配の後で、王国は1504年にスペインに統合され、王国の「称号」も失い、2世紀の間「ナポリ総督管轄区」としてスペイン王国の代理人が総督として治めた。
1734年、オーストリアの短い支配の後、ナポリ王国はブルボン王朝のカルロ3世とともに独立を取り戻した。
フランス革命の影響と、ナポレオンによるイタリア占領はナポリ王国にも及んだ。最初は1799年のパルテノペア共和国の誕生と滅亡、続いて1806年から1815年にはナポレオン王朝の設立(Murattianaとも言われる)が起きた。しかしながらナポレオンの失脚により、ナポリ王国は復活する。ナポレオン以前の状態を復活させるために開催されたウィーン会議によって、1816年にブルボン家が復帰、ナポリとシチリアの両王国は新たに正式に統合され「両シチリア王国」としてイタリア統一の時まで生き残ることになった。
[編集] 関連項目
- ナポリとシチリアの君主一覧
- ナポリ公国
- ナポリ公一覧
- シチリア王国
- ナポリ総督管轄区
- パルテノペア共和国
- 両シチリア王国
- イタリア統一前の国家
- 消滅した政権一覧
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