オーストリア帝国
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オーストリア帝国(独:Kaisertum Österreich)は1806年の神聖ローマ帝国解体から1867年のオーストリア・ハンガリー帝国の成立までオーストリアのハプスブルク家が支配した多民族国家。
前身の、神聖ローマ帝国内外の王国・領邦の連合国家だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。
オーストリア帝国のデータ | |
国旗 | |
王家 | ハプスブルク家 |
首都 | ウィーン |
人口 | 約4000万人 (19世紀中頃) |
成立 | 1806年 |
消滅 | 1867年 |
形態 | 帝国 |
民族構成 | ドイツ人: 24% ハンガリー人: 20% チェコ人: 13% ポーランド人: 10% ルテニア人(ウクライナ人): 8% ルーマニア人: 6% クロアチア人: 5% スロバキア人: 4% セルビア人: 4% スロベニア人: 3% イタリア人: 3% |
公用語 | ドイツ語 |
宗教 | カトリック、東方正教、イスラム教 |
目次 |
[編集] 概要
18世紀のオーストリア継承戦争や七年戦争によって神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであったが、フランス革命を受けたナポレオン帝政の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がる支配領域(ハプスブルク君主国)をもって帝国を形成した。
この時期の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年「諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動き、1866年の普墺戦争により大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最終的にドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するためにオーストリア・ハンガリー二重帝国が発足した。
[編集] 領域
- 神聖ローマ帝国の一部とされていた領域:オーストリア大公国、ボヘミア王国(チェコ)、ザルツブルク公国、ケルンテン公国、チロル地方など
- オスマン帝国からの征服地:ハンガリー王国の大部分、トランシルヴァニア、クロアチア、イストリア、ダルマチア
- ポーランド分割によって取得:ガリツィア、ブコヴィナ
- イタリア関係:ロンバルディア=ヴェネツィア王国、1860年まで分家がトスカーナ大公国を支配。
- 1865年から1866年にかけてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国のうちのホルシュタイン
[編集] 主要年表
- 1804年 神聖ローマ皇帝フランツ2世、オーストリア皇帝フランツ1世として即位
- 1805年 フランス軍、ウィーン占領。アウステルリッツの戦い
- 1806年 フランツ2世、神聖ローマ皇帝位を放棄
- 1809年 フランス軍再びウィーン占領。メッテルニッヒ宰相に就任
- 1810年 オーストリア皇女マリー・ルイーズとナポレオン皇帝の結婚
- 1813年 ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)
- 1814年 フランス戦役。ウィーン会議(-1815年)
- 1815年 ワーテルローの戦い。ドイツ連邦成立。
- 1819年 カールスバード勅令
- 1831年 ポーランドの蜂起
- 1835年 フランツ1世没。フェルディナント1世即位
- 1847年 ガリチアの蜂起
- 1848年
- 1849年
- 3月 ロシア帝国軍、ハンガリーに介入
- 8月 ハンガリー軍投降、コシュート・ラヨシュ亡命
- 1859年 イタリア統一戦争、ソルフェリーノの戦いに敗北。ロンバルディア割譲
- 1864年 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
- 1866年 普墺戦争、ケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)。リッサ海戦。ヴェネツィア割譲。ドイツ連邦の終焉と北ドイツ連邦成立。
- 1867年 オーストリア・ハンガリー帝国成立(アウスグライヒ)
- 1918年 第一次世界大戦終了 ハプスブルク家の退位。帝国崩壊。