ジャージ・コジンスキー
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イェジ・ニコデム・コシンスキ、ジャージ・ニコデム・コジンスキー(יז'י קושינסקי, Jerzy Nikodem Kosiński, 1933年6月18日 - 1991年5月3日)はポーランド出身でアメリカ合衆国で活動した小説家。本名ヨセク・レヴィンコプフ(Josek Lewinkopf)。
ロシア革命の亡命ユダヤ人、ミェチスワフ・レヴィンコプフ Mieczysław Lewinkopf とエルジュビェタ・リニェツカ Elżbieta Liniecka を両親としてウッチに生まれ、第二次世界大戦中は両親と別れ、片田舎でカトリックのポーランド人を装いホロコーストによる死をのがれる。このときのトラウマのために5年間、彼は口がきけなくなった。戦後両親と再会し、身体障害者の学校にはいるが、成績はきわめて優秀で、ウッチ大学で歴史と政治学の修士号を取得し、ソ連留学まで果たす。20代初めの若さでワルシャワのポーランド科学アカデミーで助教授を務めた。しかし当時の共産主義体制を嫌って、約2年にわたって国外に出る計画を立て、写真に熱中し国際的な写真コンテストに作品を出品し、写真家として評価されるようになる。国外に出る許可を得られると、捕まれば12年から15年の刑を受けることを覚悟で1957年にポーランドを脱出し、アルゼンチンとブラジルを転々としたあと、その年の12月にほとんど無一文でアメリカに渡った。その時彼はまったく英語を知らなかったという。いくつものアルバイトをしながら、辞書を引き英文学の古典を読み、日に4本の映画を観るという猛勉強の末、1958年にフォード財団の奨学金を得てコロンビア大学で社会科学を専攻する。1960年にジョゼフ・ノヴァックの名で『同志よ、未来はわがもの』『第三の道はない』という2作のノン・フィクションを発表する。1962年には、ナショナル・スティールの未亡人と結婚し、アメリカの上流社会に近づく。1967年にはグーゲンハイム奨学賞を受け1968年にはコネティカット州のウェスレイヤン大学の高等研究所の所員に任命され、1969年から1970年にかけてプリンストン大学で現代英詩を、イエール大学でドラマティック・プローズと批評を教える。
作家としてのコジンスキーの振る舞いには謎の部分が多く、ゴーストライターがいるのではないかとか、コジンスキーとは経歴詐称の作家集団の名にすぎないなどの憶測が絶えなかった。特に半自伝的な作品と考えられた『異端の鳥』については、盗作の疑いがかけられたり、小説に書かれていることが著者自身の体験したことではないという批判を受ける。自分の小説が事実に基づいたノン・フィクションであると言ったことはない、とコジンスキーは反論している。彼とCIAとの関係が死の直前まで取りざたされたりもし、誤解を自ら招いたところもあるが、これらの噂で苦しめられ傷ついていたことは間違いない。
ニューヨーク市マンハッタンの自宅でバルビツールを服用の上、ビニール袋を頭からかぶって窒息死しているところを発見された。遺書があり、自殺と断定された。
[編集] 主な著作
その作品のほとんどが、30ヵ国語以上に翻訳されているという。
- The Painted Bird (1965年)邦訳『異端の鳥』
- Steps (1968年)邦訳『異境』; 1969年全米図書賞を受賞
- Being There (1971年)邦訳『庭師 ただそこにいるだけの人』;(『チャンス』 1979年、ハル・アシュビー監督、ピーター・セラーズ主演で映画化)
[編集] 文献案内
- James P. Sloan, Jerzy Kosinski: a Biography, Diane Pub. Co., 1996, ISBN 0788153250.
- Joanna Siedlecka, Czarny ptasior (The Black Bird), CIS, 1994, ISBN 8385458042.
- Welch D. Everman, Jerzy Kosinski: the Literature of Violation, Borgo Press, 1991, ISBN 0893702765.