ジュゼッペ・キアラ
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ジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara,慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))は、イタリア出身のイエズス会宣教師。禁教令下の日本に潜入したが捕らえられ、拷問の責め苦に耐えかねて信仰を捨て、岡本 三右衛門(おかもと さんえもん)という日本名を名乗って生きた。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとなったことで知られる。
[編集] 略歴
1602年、イタリアのシチリア島パレルモで生まれる。イエズス会宣教師となり、ヨーロッパ人司祭3人および日本人修道士1人らとともにマニラ経由で日本潜入を企てる。当時、江戸幕府はいわゆる「鎖国令」(ポルトガル商船の追放およびオランダ人の出島移住)を布告した直後であり、警戒が厳しく、寛永20年(1643年)5月、筑前国で捕らえられ、長崎に送られた。
同年7月、江戸に移送され、宗門改奉行井上政重の邸に預けられ、転びバテレンとなっていたクリストファン・フェレイラ(沢野忠庵)が協力し、詮議が行われた。また大老酒井忠勝・老中堀田正盛らの邸でも取り調べが行われ、その際は将軍徳川家光も自ら検分したという。これらの詮議を受け、キアラはキリスト教の信仰を棄るに至った。ヨーロッパ諸国によるキリスト教布教の真意は国土征服の準備工作であることやキリスト教義の欺瞞性などを白状したため、幕閣のキリシタンに対する警戒感をより高めることとなった。
正保3年(1646年)に小石川の山屋敷(キリシタン屋敷。現在の文京区茗荷谷)に移され、同じく入国を企てた仲間と共に収容された。幕命により岡本三右衛門という死刑囚の後家を妻として娶り、そのまま岡本三右衛門の名を受け継いだ。幕府からは十人扶持を与えられたが、山屋敷から出ることは許されなかった。
その後もたびたびキリシタンおよび宣教師についての情報を幕府に提出し、宗門改方の業務も行った。幽閉40年の後、貞享2年(1685年)死去。死後、彼の遺体は、キリスト教徒は通常行わない火葬にされ、小石川無量院に墓石が建てられた。しかしその墓石は明治19年(1886年)、同寺墓地整理のため雑司ヶ谷へ移されるが、その後行方不明となる。現在は調布市の調布サレジオ神学院に墓碑が設けられている。