ジョン・オブ・ゴーント
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ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt、1340年3月6日 - 1399年2月3日)はランカスター公、イングランド王エドワード3世の第4子。1359年、初代ランカスター公ヘンリーの次女ブランシュと結婚し、ランカスター公となる。イングランド宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフの保護者として知られる。ゴーントとは、出生地である現在のベルギーの都市ゲント(ヘント、ガン)をさす。
詩人チョーサーの「公爵夫人の書(The Book of the Duchess)」において「白の貴婦人」と賞賛されたブランシュとの間に7人の子をもうけたが、成人したのは1男2女だった。唯一の男子は後に、ランカスター朝の祖となるヘンリー4世である。2人の女子のうち、姉のフィリッパ(1360年 - 1415年)はポルトガル王ジョアン1世妃となり、妹エリザベス(1363年 - 1425年)はペンブルク伯ジョン・ヘイスティングスと結婚した。このペンブルク伯とは3年で離婚している。
ブランシュの死後、1371年に2度目の妃としてカスティーリャ王ペドロ1世の娘コンスタンスを迎えた。彼女との間の娘キャサリン(スペイン名カタリナ)はカスティーリャ王エンリケ3世妃になった。
1394年にコンスタンスを失ったジョンは、10年来の愛人キャサリン・スウィンフォードを正式に3度目の夫人にした。彼女はエドワード3世妃フィリッパ・オブ・エノーが嫁ぐ際に随行してきた騎士の子孫で、愛人であった間に3男1女が生まれていた。正式に結婚した翌年の1397年に、4人の庶子を嫡出子に変更することが認められた。
ジョンが宮廷に強い影響力を持っていたため、甥のリチャード2世はその勢力を削ぐ機会を狙っていた。リチャード2世は、ジョンの死の前年、その子ヘンリー・ボリングブロクを国外追放し、ジョンの死を見届けるとその領地没収を命じた。
ヘンリーは帰国して反乱を起こすとリチャード2世を捕らえて廃位し、イングランド王に即位してランカスター朝を開いた。