スティング (プロレスラー)
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主にスティング(Sting)のリングネームで知られるスティーブ・ボーデン(Steve Borden、1959年3月20日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。
ネブラスカ州オマハ出身。身長192cm、体重125㎏。1990年代のWCWを代表するスーパースターである。現在はTNAに所属。
顔中に塗られた派手なペイントが特徴の怪奇派レスラーとして名を馳せているが、ごく稀にペイント無しの素顔で登場する場合もある。入場曲はメタリカの「SEEK AND DESTROY」。
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[編集] 経歴
大学卒業後にロサンゼルス郊外ベニスビーチの「ゴールド・ジム」に入会。そこで当時インストラクターで、後のアルティメット・ウォリアーであるジム・ヘルウィグ他2人と共にスカウトされ、ヘルウィグとタッグを結成しジャスティス&フラッシュの「フリーダム・フォース」というチーム名を名乗ってデビュー。後にスティング&ロックの「ブレード・ランナーズ」にタッグチーム名を改めた。
その後、ルイジアナ州のUWFで活躍するが、ヘルウィグがUWFを離脱した事でチームは解散。1987年の夏にUWFがNWAクロケット・プロモーションに買収され、翌年に同団体はWCWとなった。NWA世界ヘビー級王者リック・フレアーやグレート・ムタとの抗争で人気を博す。1988年3月27日、WCWがWWFのレッスルマニアⅣの裏で開催した大会クラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンズで行われたフレアーとのNWA世界タイトルマッチが45分時間切れの素晴らしい名勝負となり、トップスターの仲間入りを果たした。1989年、全日本プロレスへのワンマッチ参戦で初来日。アメリカでの活躍が知れ渡っており期待されたが、ダニー・スパイビーに敗れここでは評判倒れに終わった。1990年7月にはついにフレアーからNWA世界王座を奪取。1991年1月にフレアーに敗れ王座転落。その後は8月25日、トーナメントを制してUSヘビー級ベルトを獲得した。1992年2月29日には盟友レックス・ルガーを破ってWCW世界ヘビー級王座を獲得する。1995年1月4日には、新日本プロレスの格闘技トーナメントに参加。決勝でアントニオ猪木と激突した。
1996年に、レックス・ルガーとのタッグでWCW世界タッグ王座を獲得。nWoとの抗争をきっかけに長期欠場し、復帰後は映画「ザ・クロウ」(邦題「クロウ - 飛翔伝説」)の主人公・エリック・ドレイベンをモチーフとした白黒ペイントを施しギミックチェンジを果たす。
その後もnWoに対抗できる唯一の存在として活躍、nWoがハルク・ホーガン派とケビン・ナッシュ派に分裂すると、ナッシュ派のnWoである「ウルフパック」に加入し、ペイントも同チームのテーマカラーである赤バージョンに変更した。WWF(現WWE)から移籍して来たブレット・ハートに敗戦してからは長期欠場。復帰後は白黒ペイントにリターンし、ベビーフェイスの立場を貫き続けてた。
2001年春、WCWは崩壊。しかしスティングはWWEへの移籍を選ばず、WCWの残党が多く集まったWWAに参戦。同団体の活動停止後はTNAにも度々ゲスト参戦(試合はほとんど行わず)。しばらく姿を消していたが、2005年暮れよりTNAと正式契約し、ジェフ・ジャレットが率いるヒール軍団と抗争を開始。その際、レックス・ルガーとバフ・バグウェルを登場させ、ジャレット達を挑発した。2006年10月22日、ジャレットを下しNWA世界ヘビー級王座を獲得した。
多くのトップレスラーがWWEと旧NWA系団体(WCW、TNAなど)を行き来している中、スティングは一度もWWEに籍を置いた事がない数少ないレスラーであるため、NWAを象徴するレスラーとしてファンの支持を得ている。
[編集] タイトル歴
- NWA世界ヘビー
- WCW・USヘビー
- WCW世界タッグ
- WCW TV王座
- WCW 世界ヘビー
- UWF世界タッグ
[編集] 得意技
- スコーピオン・デスドロップ(リバースDDT)…ペイントが白黒バージョンになってからの得意技
- スコーピオン・デスロック
- スティンガー・スプラッシュ
- フェイスクラッシャー
- リフトアップスラム
- クローズライン
- 黒バット(固有凶器)
[編集] その他
- WCW時代に、新日本に参戦した際武藤敬司とタッグを組んだ時は、武藤に自分と同じようなペイントをさせて試合していたが、決して自分より上手に描かなかったらしい。
当時誌面では『ムティング』と呼ばれており、闘魂Vで武藤が解説で出ていた際に『あいつ、自分のよりかっこよく書いてくれないんですよ』と語っている。