タデウシュ・コシチュシュコ
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コシューシコ (ポーランド語 Tadeusz Kościuszko (タデウシュ・コシチュシュコ)、英語 Thaddeus Kosciusko(タディアス・コシューシコ)、ベラルーシ語 Тадэ́вуш Касьцю́шка, 1746年2月4日 リトアニア・ブジェシチ/ブレスト近郊メレシュフシチジナ村 Mereszowszczyźna (現ベラルーシ・コサヴァ Kosava) / シェフノヴィツァ Siechnowica / ザオシェ Zaosie - 1817年10月15日 スイス・ゾーロトゥルン)はポーランドの愛国者、軍人。
ワルシャワの幼年学校に入り、1769年~1774年の間、ドイツ、イタリア、フランスに派遣されて軍事教育を受けた。76年から83年の間、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加し、ジョージ・ワシントンの副官として戦った。その間、ジェファーソンらの自由思想に強く影響された。
帰国後、新憲法をめぐるロシアの干渉と戦ったが敗れ、ライプツィヒ、パリで亡命生活をおくった。
1793年の第二回ポーランド分割後にクラクフで蜂起。一時はワルシャワ、ヴィルナをおさえたが、やがてロシア・プロイセン連合軍に圧倒された。94年10月には彼自身も戦傷を負いロシア軍に捕らわれた。コシューシコの敗北によりポーランド国家は消滅の憂き目にあう。その後98年にコシューシコはフランスへ亡命するが、ナポレオンのポーランド政策には同調せず、スイスで没した。
ミハイル・アルツィバーシェフは曾孫。
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