ダッチ・シュルツ
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ダッチ・シュルツ(Dutch Schultz, 1902年8月6日 - 1935年10月24日)は、1920年代から1930年代にニューヨークで活躍したギャング。本名はアーサー・フレゲンハイマー(Arthur Flegenheimer)。気が短く暴力的な性格で、問題がおきるとを銃で解決するタイプで、多くの流血沙汰を起こした。
ニューヨークのブロンクスでユダヤ系ドイツ人の両親(父は酒屋の主人だった)の間に生まれる。14歳で父が失踪し、学校を中退して働き始めたが間もなくギャングとなって17歳で強盗を働いた。その後、コーサ・ノストラとも連携して密造酒、モグリ酒場、売春業、ナンバーズ賭博などあらゆる違法事業を手がけ、ブロンクスとハーレムを支配下に置いて財産を築いた。
シュルツは、禁酒法時代にニューヨークにおけるビールの最大供給者であったため「ビール男爵」と呼ばれていた。
1931年から32年にかけてジャック・ダイアモンド、かつての盟友ヴィンセント・コールと抗争を繰り広げ、最終的に両者とも殺害した。同年には検事トーマス・デューイに脱税容器で告発され、22ヶ月にわたって潜伏生活を送る。告発そのものは最終的に買収工作により取り下げられたが、その間に副官ボー・ワインバーグはラッキー・ルチアーノの了承の元にシュルツの権益を手に入れた。潜伏生活から復帰したシュルツは1934年ニューヨークに戻るが、もはやそこに彼の居場所は無く、ニューアークへ拠点を移さざるを得なくなった。そして1935年9月9日には(おそらく)ワインバーグを殺害し、権益を取り戻した。一方、シュルツはニューヨークを追われた事を恨み、デューイ暗殺を計画した。
デューイ暗殺による司法当局の取締強化を恐れたラッキー・ルチアーノ(かつては同盟を結んでいた)らは、アルバート・アナスタシア、ルイス・”レプケ”・バカルター率いるマーダー・インクにシュルツ殺害を命じた。1935年10月23日、ニューアークのパレス・チョップハウスでシュッツは部下のオットー・"アッバダッバ"・バーマン(Otto Berman)、副官エイブ・ランダウ、ボディーガードルル・ローゼンクランツと共にマーダー・インクの刺客チャールズ・ワークマン、エマニュエル・ヴァイスの2人に銃撃され、翌日息を引き取った。最後に言った言葉は「俺のことはほっといてくれ」。
彼はユダヤ教徒だったが、銃撃直後にカトリックに改宗したため、ニューヨークのCemetery of the Gate of Heavenに埋葬された。
彼が死の直前に残した脈絡の無い言葉は警察の速記者によって記録され、ウィリアム・S・バロウズ(『ダッチ・シュルツ最後の言葉』など)らの作家が作品の題材とした。
彼の生涯は、多くの小説や映画(「ビリー・バスゲイト」(1991年)、「奴らに深き眠りを」(1997年)など)の題材になっている。なお、ルチアーノが「最も安っぽいやつだった」と言っているように、いつも安いスーツを着ていたという。