ラッキー・ルチアーノ
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ラッキー・ルチアーノことチャールズ・ルチアーノ(Charles "Lucky" Luciano, 本名 サルヴァトーレ・ルカーニア Salvatore Lucania, 1897年11月11日 - 1962年1月26日)は米国のイタリア系犯罪組織マフィア (コーサ・ノストラ) の最高幹部で組織改革者。アメリカの犯罪シンジケートの立案者・実力者。マフィア史上最大の大物の一人。マフィアをアメリカ風にした男。古いしきたりをやめてビジネス的にした。人種にこだわらずに合理的に進めた。イタリアへ追放されてからは麻薬コネクションを形成し、暗黒街を大いに富ませた。
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[編集] プロフィール
イタリアの南部・シチリアの都市、パレルモ近くの町レルカラ・フリッディ村の貧しい家庭に父アントニオ、母ロザリオの次男として生まれた。父親のアントニオは鉱山で働く労働者。食っていくのが精一杯の貧しい家庭だった。そのため、アメリカに移民することを決める。シチリアではまともな教育を受けることも満足に食べることもなく成長し、1906年11月に両親と4人の兄妹とニューヨークにやってきた。しかし、アメリカでもアントニオは、まともな仕事にありつけず日雇いの労働者となって家族を養っていく。このとき、家族が描いたアメリカンドリームが崩れた瞬間だった。
[編集] 犯罪の世界へ
少年時代にファイヴ・ポインツ・ギャングに身を投じた。この頃にアル・カポネとも出会っている。ロワー・イーストサイドの悪夢のようなスラム街で少年時代を過ごす。このときのことを人生最悪の経験と語っている。1907年、万引きで検挙されてから恐喝、麻薬密売などの犯罪に手を染め、ジョー・アドニス (Joe Adonis)、ヴィト・ジェノヴェーゼ (Vito Genovese)、フランク・コステロ (Frank Costello) らのイタリア系犯罪者や、マイヤー・ランスキー (Meyer Lansky)、ベンジャミン・シーゲル (Benjamin Siegel)、ダッチ・シュルツ (Dutch Schultz) ら他国系移民の犯罪者と親交をもった。生涯通じて重要なパートナーだったランスキーとの出会いは、ルチアーノがユダヤ人の用心棒をやっていた時に、ルチアーノがランスキーに「アイルランドの連中から守ってやるから、金を払いな」と言うと、頭一つ分小さいランスキーはルチアーノをにらんで、「用心棒?そんな者いらねえよ」と言った。このときから友人になった。シーゲルはこの2人のことをまるで恋人のような強い絆と語っている。
1916年6月26日に麻薬不法所持で逮捕される。このとき入ったハンプトン・フォームス刑務所内で、本名のサルヴァトーレのことをサリーちゃんとからかわれたという。このころからチャールズ・ルチアーノと名乗るようになった。
その後、麻薬ビジネスなどで儲けるようになると、世界屈指の一流ホテル、ウォルドルフ=アストリアの豪華なスイートルームにチャールズ・ローズなる偽名で住んだ。
若い頃の彼はしゃれた格好をしたニューヨークのプレイボーイで常に美女軍団を連れてストーク・クラブで大判振る舞いをしていた。
1923年9月14日にニューヨークで行なわれたジャック・デンプシー対ルイス・アンジェロ・フィルポの試合を見に行ったとき、その試合会場でルチアーノが賄賂を贈っている政治家、裁判官、警察関係者たちは、ルチアーノを見かけると次から次と握手を求めてきた。このときルチアーノは、自分の権力のすごさを実感したという。
1928年頃になると、各地の組織と協力しないと、今後は生き残っていけないと考え、シカゴを引退していたジョニー・トーリオたちと「ザ・セヴン・グループ」という。穏やかな同盟関係を構成する。翌1929年5月には、ニュージャージー州アトランティック・シティのプレジデント・ホテルで全国から集まった若手ギャングスターと会議を開く、この会議で、ファミリー間の地位は大きさに関係なく同等という。その後のコミッション制(アメリカン・マフィア)が考えられた。
[編集] 最高幹部へ
10代の頃より商才を発揮してイタリア人同士の対立にはできる限り関与せず友人達と中立の立場にいたが、1920年後半にジョー・マッセリア (Joe Masseria)とサルヴァトーレ・マランツァーノ (Salvatore Maranzano)の対立カステランマーレ戦争が本格化するとどちらかに付かざるを得ない状況になり、マッセリアと協定を結ぶ。
マッセリアの配下にいたとき、彼のライバルであるマランツァーノの誘い話に乗らなかった。その理由は、一緒に組んでも良いが、ランスキーたちシチリア人でない人間を組織からはずせという内容だった。そのためルチアーノはこの話を断った。
1929年10月17日、ニューヨークのステイトン・アイランドの路上で意識不明で倒れていた。すぐに病院に運ばれ緊急手術を受け、奇跡的に助かる。このとき顔を切り裂かれていたため、55針を縫ったという。この傷は一生残ることになる。そのため右目蓋がたれている。それでも命は助かったことから「ラッキー・ルチアーノ」というニックネームが付く。仲間からはチャーリー・ラッキーと呼ばれるようになった。この事件は、マランツァーノの誘いにルチアーノが乗らなかったことで起った。
この頃ルチアーノは、武力で相手を押さえつける口ひげピートたちのやり方には、何のメリットもないと感じていた。そのため、マランツァーノ(シチリア人だけにこだわっている彼の組織は時代遅れだと思った)やマッセリアという旧時代のボスたちの時代を終わらせようと考えていた。
当初はマッセリアの勢力が大きかったが、徐々にマッセリアの形勢が不利になってくると、最後にはマランツァーノ側につき、マッセリアの暗殺に加担する。1931年4月15日午後、コニーアイランドのイタリアン・レストラン「スカルパート」でルチアーノはマッセリアを食事に誘い、食後、カードゲームを始めて、しばらくするとトイレに行くため席を立った。その間に、4人の殺し屋が入って来てマッセリアを暗殺した。警察にトイレの時間が長かったことを聞かれたルチアーノは、「俺は一度始まると、なかなか終わらないたちでね」と長小便の習慣があると言い、悪びれた様子はなかったと言う。
1931年5月にニューヨークの大ボスとなったマランザーノやジョゼフ・ボナンノらとシカゴで行われたギャングスターの集まりに出る。このときのアル・カポネのことを逮捕が近かったせいか気が気ではなく顔が真っ青だったと感じた。
その後、古い考えでシチリア人だけの組織にこだわったマランツァーノも暗殺する。マランツァーノも危険分子であるルチアーノを消そうと企んでいたが、ルチアーノはその事を内部情報で知っていた。そのため、先手を打ってマランツァーノを殺害した。その48時間以内に全米に残った口ひげピートと呼ばれる旧時代のボスたちを殺すか、強制的に引退させた。これがシチリアの晩鐘といわれる事件である。しかし、ルチアーノによれば、そんな大量虐殺の事実は一切ないと言い、警察の記録でも、ほんの数人のギャングが殺害されただけということになっている。
ルチアーノは組織力に優れ、マランツァーノが考えたニューヨークの縄張りを五大ファミリーへ固定化を実行し、他にも各地のイタリア系犯罪組織の統合化を目指した。また犯罪集団にとって、互いに争いをなくして目立たず潜在化することが利益に繋がることを説いて、他国系移民の犯罪組織とも協力して犯罪シンジケートの構築と運営の合議制化、制裁機関の設置などを考案した。それまで血縁関係や古いしきたりに従って動いていたマフィアを、アメリカンナイズされた近代的なビジネス組織へと作り変えていった彼自身もボス同士の互いの公平な立場を強調してトップの地位を目指さずに信用を集めている。この頃彼は、自分の数多くの事業が年に20億ドルになると見積もっていた。
[編集] 逮捕と不可解な釈放
1936年、野心家の検事トーマス・デューイは、ルチアーノを「公共の敵ナンバーワン」と名指しし、厳しく追及した。そのためアーカンソー州ホットスプリングス(当時引退したギャングが集まる街だった)に身を隠した。このとき、古くからの友人のオウニー・マドゥンに生活の面倒を見てもらう。しかし、4月1日にカジノで遊んでいたところ逮捕された。マドゥンが用意した優秀な弁護士を雇い5千ドルですぐに釈放されるが、デューイ側はすぐに再逮捕し、ニューヨークに連行された。ルチアーノ側は州司法長官のカール・E・ベイリー長官に5万ドルの賄賂を交換に釈放を求めたが断られた。
1936年、裁判では容疑は数多くあった。殺人、酒の密造・密売、労働組合の恐喝、ミカジメの取立てなど、しかし、有罪になったのは彼が犯さなかった数少ない犯罪の一つの強制売春だった。売春事件としては異例の禁固30~50年の刑を宣告された。実質的には終身刑に匹敵する。このときの裁判で、検察側が出頭させた証人の多くは、当局の指示に従わないと逮捕すると脅迫を受け、売春婦たちにルチアーノに対して不利な証言をさせていた。デューイ側はなんとしてもルチアーノを投獄させたかった。
ルチアーノは「私は多くの不法行為に関与したが、強請売春だけはやってない」と無実を主張したが、その後10年近く刑務所で暮らすことになる。ギャングが監視体制の厳しさからシベリアと恐れていたダンネモーラ刑務所に送られた。
投獄されるが、その権勢は衰えず、刑務所内から面会に来たランスキーやコステロたちを使い、組織犯罪の指揮をとり続けた。刑務所の中でも大きな権威を持っていた。
ニューヨークの刑務所へ収監され人生が終わった筈のルチアーノだが、第二次世界大戦勃発により転機が訪れる。どのような経緯かは不明だが戦後に仮釈放委員会の対象とされ1946年に国外追放の形で釈放される。
なお、「ギャングスター」の通弊として、様々な伝説に彩られるルチアーノだが、大戦中の1943年7月、シチリア南岸に上陸したパットン率いるアメリカ軍が7日でパレルモに進撃した事件に関して、侵攻初期の段階でニューヨークの刑務所に収監されていた筈のルチアーノがシチリア島で目撃されていたという噂があるが、識者の間でも議論の分かれる点ではある。
[編集] アメリカ海軍との密約[暗黒街計画]
第2次世界大戦が始まると、東海岸一帯、特にNYの港はドイツによるUボートの攻撃や諸々の破壊活動を受けていた。当時、フルトンフィッシュマーケットのようなNYの港は余所者が紛れ込むのに都合のいい場所と見られており、そしてこの港はルチアーノのマフィア組織が牛耳っており、警察や軍の関係者が行くと身構えられてしまっていた。埠頭や繁華街での諜報活動にアメリカ海軍はマフィア組織との協力が必要だった、こうして通称暗黒街計画が始まる。
大戦中にドイツの陰謀を利用して市民の不安をあおれば刑務所から出られると考え、アメリカ海軍に協力し、波止場でのスパイ監視活動やシチリア上陸作戦の情報提供を指示する。ランスキーらを刑務所に呼び波止場における自分たちの支配力を行使するよう命じた。1941年。第2次世界大戦の時、海軍情報部のため活動していたニューヨーク地方検事のフランク・ホーガンは協力を頼みラッキー・ルチアーノは取引をし、ダンネモーラ刑務所からニューヨークに近いグリーンヘヴン刑務所へ移してもらう。
その後、連合軍がシシリーへ進行したときは、ジョー・ランザからの推薦もあり、チャールズ・ハッフェンデン少佐が刑務所にいるルチアーノに協力を要請した。刑期を短縮させる努力をするというのが交換条件だった。しかし、ルチアーノは幼児のときにアメリカに渡ってきたのでシチリアへのコンタクトはひどく少なかった。そのためシシリーとのコンタクトを持っているヴィンチェント・マンガーノ、ジョセフ・プロファチ、ジョゼフ・ボナンノらにも協力してもらい、シシリー・マフィアの大ボス、カロージェロ・ヴィッツィーニの協力を得た。ムッソリーニはマフィアを弾圧していたので、彼らの利害関係が一致していた。1942年5月にグレート・メドウブ刑務所に移送される。
(ラッキー・ルチアーノの遺言 勁文社より。本作は彼と親交のあった映画プロデューサーがライターに書かせたものであるが内容の多くに贋作の疑いがあり、ほぼマニアの間では定説となっている。[暗黒街計画]は章のタイトルそのままであるのもマニアの常識)
大戦後の1945年5月7日に恩赦を求める嘆願書をニューヨーク州知事となったトーマス・E・デューイに提出した。政府は大戦中の功績を認め恩赦を許可した。しかし、アメリカ市民権を持たないのでイタリアへ強制送還された。仲間に裏切り者としてリンチを受けれることを恐れたとも言われる。その為この件は基本的に秘密にされた。また、戦後もイタリアにマフィアが蔓延る遠因にもなったという指摘もある。ルチアーノはデューイに多額の政治資金を送ったという話もある。
1946年2月の寒い朝、船でニューヨークを発った。のちに彼は「汽笛は私の腹の中いっぱいに鳴り響いた。刑務所の扉が閉まったように」と語った。ルチアーノはすぐにアメリカに戻れるものだと思っていた。船内では豪華なパーティーでルチアーノの送別会が行なわれた。参加者はランスキー、シーゲル、コステロ、ボナンノ、マドゥン、カルロ・ガンビーノ、アルバート・アナスタシアらマフィアの大物多数。このとき、港には多くのマスコミ関係者がルチアーノを取材しようと、詰め掛けていた。しかし、アナスタシア兄弟の指示を受けて、彼らの前には、荷揚げ用のフックで武装した港湾労働者が立ちはだかり、ジャーナリストたちは、一歩も進むことは出来なかった。
[編集] 追放後
アメリカ追放後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンをレバノンでモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させていた。この意味で、1970年代のパレスチナゲリラの分派たちに資金作りの方法を教えた恩人と言える。勿論、麻薬に関してはコルシカギャングが以前より地中海で幅を利かせていたが、米本土とのコネクションを持ち、イタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、マフィアの勢力はさらに拡大する結果となった。中継基地のキューバも手中に収めている点でルチアーノは間違いなく60年代の麻薬王となった。この麻薬はマフィアの資金源として彼の権威を絶大なものとした。
イタリアへ強制送還となっていたが、一度はキューバに落ち着き、1946年12月にマフィアの全国委員会・ハバナ会議開催(重要な議題はベンジャミン・シーゲルの処遇、麻薬取引)がキューバで開かれ議長を務めたりもするが、アメリカ政府がキューバ政府に圧力をかけたため、再びイタリアへ行くことになる。その後、愛人のイゲア・リッソーニと共にナポリに落ち着く。その後も、シシリー・マフィアとカモッラとの仲をとりもったりするなど、常に犯罪組織に大きな影響を与え続けたが、生きてアメリカの土を踏むことはなかった。後年には、かつての盟友だったジェノヴェーゼに刺客を送られたりもしたという。
1961年に、自伝映画の話が持ち込まれた。報酬は10万ドルと配給収入の一部を受け取る契約であった。ルチアーノはこの申し出を受諾する。しかし、それを聞いたニューヨーク側は黙っていなかった。特にランスキーは「今まで秘密にしてきたことをなぜ今さら話す必要があるんだ」と激怒したという。それでもルチアーノは映画製作を決心する。しかし、その矢先の1962年1月16日に、映画製作者を出迎えるためナポリ空港に出向いたとき空港で、心臓発作を起こし死亡した。暗殺の疑いもある。その遺体はニューヨークのセント・ジョーンズ墓地に埋葬された。
[編集] 関連項目
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