ディエゴ・リベラ
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ディエゴ・リベラ(Diego Rivera、1886年12月8日 - 1957年11月24日)はメキシコの画家。キュビズムの影響を受けた作風で、多くの壁画作品で知られる。フリーダ・カーロの夫。フルネームはDiego María de la Concepción Juan Nepomuceno Estanislao de la Rivera y Barrientos Acosta y Rodríguez。
[編集] 初期の経歴
1886年、メキシコのグアナフアト市に生まれる。1896年、10歳の時にサン・カルロス美術学校に入学。その後奨学金を得て1907年よりスペイン・パリなどで絵画を学び、パリのモンパルナスに住みアメデオ・モディリアーニやモイズ・キスリングなどエコール・ド・パリの若手作家たちと交友を深めた。一方、この頃にキュビズムに強い影響を受け画壇で注目されるようになった。すでに漁色家で知られ、この頃にも多くの女性画家と交際し多くの子供を残したが、いずれの子にも養育費などの責任を負わなかったとされている。
[編集] 壁画運動
1920年、メキシコに民衆のための芸術を興すというダヴィッド・アルファロ・シケイロスの誘いに賛同してパリを離れた彼はイタリアを旅して壁画を研究、1921年に帰国してグアタールぺ・マリンと結婚。メキシコ壁画運動の中心的人物となる。彼はテンペラ画によって、メキシコの民族的な伝統と社会主義的な文脈を組み合わせた壁画を公共建築などに多く描いた。メキシコシティの国立宮殿や、チャピンゴの国立農学校には彼の代表作が今も保存されている。この時期メキシコ共産党に入党し、教会や聖職者を攻撃したが、その激しい性格とレオン・トロツキーの思想への関心などから多くの敵対者を生んだ。彼は1927年にロシア革命10周年記念でソビエトのモスクワに招待されたが、翌年反ソビエト活動に関わった疑いで送還された。共産党からも1930年に除名される。
1930年、画家のフリーダ・カーロと結婚。彼は42歳でフリーダは22歳で、その夫妻の容姿から周囲には美女と野獣カップルといわれた。1930年から1933年にかけて大不況後のアメリカ合衆国で活動し、多くの建物に産業や労働者をテーマにしたフレスコによる壁画を残し大きな評価を得た。1933年にはニューヨークのロックフェラーセンターに『十字路の人物(Man at the Crossroads)』と題する壁画を書き上げたが、アメリカの建国者たちと並んで社会主義者のレーニンの肖像を配した壁画は発注者やマスコミの猛反発を呼び、完成直前に破壊された。その後のアメリカでの仕事もすべてキャンセルされ、彼は怒りと失望でメキシコに帰国する。しかし時代を下がる1940年にサンフランシスコで壁画を制作することがかなうなどアメリカのクライアントとの関係は続いた。
彼はメキシコに訪れた多くの芸術家を家に招いた。メキシコに亡命したトロツキーも家に招待するが、その後間もなく二人は仲たがいしてしまう。その後にトロツキーが暗殺されたことで、彼も暗殺に関わったのではという憶測が流れることにもなった。また、女性関係にいとまがなかった為 夫婦仲が極端に悪化、とりあえず別居してみたものの、彼もフリーダも不倫が続き、1939年に離婚。しかし1年後に復縁再婚し彼女が1954年に死去するまで夫婦であり続けた。健康に不安があったフリーダは妊娠するも結局流産し二人の間の子供はなかった。ディエゴ・リベラは翌年の1955年に別の女性と再婚し、1957年にメキシコシティで死去。
[編集] 作品
メキシコにはディエゴ・リベラ壁画博物館、ディエゴ・リベラ・アトリエ美術館、ディエゴ・リベラ博物館がある。