トミスラフ2世 (クロアチア王)
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アイモーネ・ロベルト・マルゲリータ・マリーア・ジュゼッペ・ディ・トリノ(Aimone Roberto Margherita Maria Giuseppe di Torino, 1900年3月9日 - 1948年1月29日)は、イタリアの貴族で、サヴォイア家の一員。クロアチア国王トミスラフ2世(Tomislav II)。第4代アオスタ公(Duca di Aosta)。
1900年、アイモーネ・ダオスタはトリノで生まれた。彼はエマヌエーレ・フィリベルト第2代アオスタ公爵(スペイン王アマデオ1世とマリア・ヴィットリア王妃の子)とヘレネ公妃(オルレアン公フィリップとスペイン王女マリア・イザベルの娘)の第2子である。彼の曾祖父はイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世であり、そのため彼はサヴォイア家の一員でもあった。
1904年9月22日、彼は生涯の称号となるスポレト公爵を授けられる。
1939年7月1日アイモーネ公は、ギリシャ国王コンスタンティノス1世とゾフィー王妃の娘であるイレーネ王女と、フィレンツェで結婚した。1943年9月27日、2人の間には、第5代アオスタ公となる息子のアメーデオが生まれた。
1941年、ドイツ・イタリアの枢軸軍がユーゴスラビアを占領すると、クロアチアの大部分とボスニア・ヘルツェゴビナを併せ、「クロアチア独立国」を創設した。そしてクロアチア政府の首班アンテ・パベリッチは、イタリアから国王を迎えようとムッソリーニに打診し、アイモーネ公が選ばれた。
1941年5月18日、彼はクロアチア建国の英雄トミスラフ王(Tomislav)の名を冠し、クロアチア国王トミスラフ2世を宣言した。しかし、彼は象徴的な意味合いだけで、決して如何なる実際上の権力も持たなかった。また、クロアチア人によるテロを恐れ、自らの領国には足を踏み入れず、フィレンツェに留まった。そしてイタリアが戦争から脱落すると、1943年10月12日彼はその王位を放棄した。
また、兄のアマーデオ第3代アオスタ公がタンガニーカの英軍捕虜収容所で亡くなったため、アイモーネは1942年3月3日、第4代アオスタ公爵となった。
彼の国王時代の正式な称号は「クロアチアの王(King of Croatia)にして、ボスニア・ヘルツェゴビナ公(Prince of Bosnia and Herzegovina)、ダルマチア・ツズラ・テムンのヴォエヴォド(Voivode of Dalmatia, Tuzla and Temun)、アオスタ公(Duke of Aosta)、 チステルナとブレックファーストの公(Prince of Cisterna and of Belriguardo)、ボグヘラ候(Marquess of Voghera)、ポンデラノ伯(Count of Ponderano)」であった。
戦後、イタリアで王制が廃止され、サヴォイア家が追放されると、彼はアルゼンチンに移住した。そして、1948年ブエノスアイレスで死去した。
[編集] 外部リンク
- サヴォイア家 トミスラフ2世系図 アイモーネ公の解説あり
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