バディ・ロジャース
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バディ・ロジャース(Buddy Rogers、1921年1月20日 - 1992年6月26日 )は、アメリカの元プロレスラー。ニュージャージー州ケムデン出身。身長180cm、体重110kg。ニックネームは「野生児(ネイチャー・ボーイ)」。なお出生時の本名はハーマン・ローデ(Herman C. Rohde Jr.)であったが、後年にリングネームのバディ・ロジャースを正式な名前とする法的手続きを取った。なお、日本のリングにあがった経験はない(力道山は何としても招聘したかったが、現役当時はアメリカマット界の超人気レスラーだった為、日本に行く時間的余裕が無かったからと言われている。ただし、一度だけレフリーとして(新日本プロレスに)来日している)。ジャイアント馬場が憧れたレスラーとしても知られている。
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[編集] 経歴
1939年デビュー。いわゆる「ヒール・チャンピオン」の元祖となったレスラーである。決め技の足4の字固め、レフェリーの影で反則を繰り返す小ずるい動き、ピンチに陥るとわざと反則負けを食らったり、怪我をしたふりをして王座を防衛するなど、その所作はニックネームの「ネイチャー・ボーイ」ごとリック・フレアーに受け継がれた。フレアー以前にもレイ・スティーブンスやニック・ボックウィンクルが彼のスタイルを継承している。
リングを降りても「悪役」だったようで、カール・ゴッチによる「襲撃事件」など(長くゴッチの襲撃説が広まっていたが、ゴッチと口論になった後控え室からロジャースが出ようとした際、ゴッチに付き添っていたビル・ミラーがドアを蹴ってロジャースの腕が挟まれて負傷したというのが真相といわれている)、ダーティーなイメージが付きまとった。 しかしジャイアント馬場は自分がアメリカ修行時代に見た中では人気実力を兼ね備えた最高のレスラーと語っている。またビンス・マクマホンも最も憧れた選手と回想している。
全米一の観客動員力を誇るスーパースターであったが、NWA内部の権力闘争の影響でNWA王座に着くのは遅く、1961年6月30日シカゴのコミスキー・パークでパット・オコーナーを破りようやく第43代NWA世界ヘビー級王者となる。1963年1月ルー・テーズに敗れて王座転落後、自らのボスであったビンス・マクマホン・シニアのWWWF設立に協力し初代WWWF世界ヘビー級王者となったが、ブルーノ・サンマルチノに48秒で秒殺されて王座を失い、そのまま選手としては引退。1978年に一時期復帰し若手時代のリック・フレアーと対戦(フレアーの勝利)して、言わば「ネイチャーボーイ継承の儀式」を行っている。1980年代にジミー・スヌーカのマネージャーとしてプロレスの現場に復帰している。
1992年6月26日死去。1994年に、その生前の功績を称えられWWF殿堂入りを果たした。
オコーナーを破って世界チャンピオンになった試合は長くプロレスの観客動員記録だったもので、インタビューにおいて生涯のベストバウトと語っているが、この試合の記録とされるビデオでは一本目ロジャース(ランニングニーリフトからフォール)二本目オコーナー(ローリングバッククラッチホールド)三本目ロジャース(オコーナーのドロップキック自爆からフォール)となっている。 一方、東京スポーツ新聞社刊「プロレス名勝負物語」によれば、一本目オコーナー(回転エビ固め)二本目ロジャース(バックブリーカー)三本目ロジャース(足4の字固め)とされる。
[編集] 得意技
[編集] タイトル履歴
- NWA
- WWWF
- WWWF世界ヘビー級王者
[編集] 関連項目
カテゴリ: アメリカ合衆国のプロレスラー | 1921年生 | 1992年没