ブルーノ・サンマルチノ
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ブルーノ・サンマルチノ(Bruno Sammartino、1935年10月6日 - )は、イタリア、アブルッツォ地方キエーティ県ピッツォフェッラート出身のプロレスラー。本名はブルーノ・レオパルド・フランチェスコ・サンマルチノ(Bruno Laopardo Francesco Sammartino)。怪力と豊富なスタミナをもち、WWWFヘビー級王座に長期にわたって就き、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンに出場しつづけたことから「人間発電所」「MSGの帝王」といわれた。
WWE殿堂に迎えられて当然の人物だが、本人が殿堂入りを拒否しているため実現していない。
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[編集] 来歴
- 1935年10月6日 - イタリアの大工の家で生まれる。
- 1951年 - 一家そろってアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグに移住。
- 1953年 - 兵役につく。
- 1955年 - 除隊し、建築関係の仕事に就く。
- 1959年 - ニューヨークでプロレスデビュー。
- 1963年5月17日 - ニューヨークのMSGでバディ・ロジャースを僅か48秒で破り、第2代WWWF世界ヘビー級王者になる。
- 1964年2月17日 - ニューヨークのMSGでWWWF王座の防衛戦を行う。2度目の武者修行中であるジャイアント馬場の挑戦を受ける。結果はニューヨーク市の条例(カーフュー。23時には興行を終了しなければならない)により引き分け。
- 1967年3月 - 初来日し、日本プロレスに参戦。馬場のインターナショナルヘビー級王座に連続挑戦する。結果は2回とも馬場の防衛。
- 1968年8月7日 - 再び日本プロレスに来日し、馬場のインターナショナルヘビー級王座に挑戦する。結果は馬場の防衛。
- 1971年1月18日 - イワン・コロフに敗れてWWWF王座から転落する。在位期間は7年8ヶ月。
- 1971年11月25日 - 馬場のインターナショナルヘビー級王座に最後の挑戦。結果は馬場の防衛。
- 1972年10月 - 全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦。世界選手権争覇戦で馬場と対戦。
- 1973年10月 - 凱旋帰国した鶴田友美(ジャンボ鶴田)の国内デビュー戦でタッグパートナーをつとめる。
- 1973年12月9日 - スタン・スタージャックを破り第6代WWWFヘビー級王者に返り咲く。
- 1975年5月 - 自らのWWWF王座もかけて、馬場の持つPWFヘビー級王座に挑戦。
- 1976年4月26日 - スタン・ハンセンとのWWWF王座防衛戦で、ハンセンの放ったボディスラムで脳天からリング上に落下、ケイ椎を損傷する重傷を負う。試合はストップされず、その後もサンマルチノが戦いつづけたものの、額から流血しているのをレフェリーが確認して試合を止めた。その後、病院に運ばれた。この負傷を境に、サンマルチノはレスラーとしての衰えが顕著になっていった。
- 1976年6月25日 - 負傷した首が完治しないままスタン・ハンセンとのリターンマッチに出場。場外カウントアウトで下す。なお、この日はアントニオ猪木vsモハメド・アリの異種格闘技戦がアメリカにクローズド・サーキット方式で衛星生中継された日だったが、チケットの売れ行きがよくないのをみたビンス・マクマホン・シニアが、サンマルチノに出場を依頼して決定したものだった。
- 1977年4月30日 - スーパースター・ビリー・グラハムに敗れてWWWF王座陥落。
- 1981年10月9日 - この月に引退を決意、全日本プロレスの創立10周年記念興行に来日し、馬場とのコンビでタイガー・ジェット・シン、上田馬之助組と対戦。これが事実上の引退試合となる。
- 1984年9月 - TVショー“スーパースターズ・オブ・レスリング”のカラー・コメンテーターとしてWWFに復帰。
- 1985年5月20日 - 息子のデビッド・サンマルチノとのコンビのタッグマッチでリングに一時復帰。
- 1989年10月28日 - NWAPPV大会のサンダードーム・スチール・ケージ・マッチ(グレート・ムタ&テリー・ファンクvsスティング&リック・フレアー)をスペシャルレフェリーとして務めた。
- 1999年5月2日 - この日行われた全日本プロレスの東京ドーム大会に来日。ジャイアント馬場「引退試合」に友人(兼対戦相手)として参列。
- 2001年 - 故郷に銅像が建立され、自らの名前がついた記念体育館が建設される。
[編集] ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノ
ジャイアント馬場とは、レスラーのキャリアは1年しか違わなく、若手時代からの友人であり出世を誓い合った最大のライバルの一人であった。実際に、時期は違えど両者ともに出世し世界王座奪取を成し遂げて、お互いに世界王者の立場で対戦したことが何度かある。しかし、互いにベルトをかけて戦ったのは、1975年5月のPWFとWWWFのダブルタイトルマッチのみであり、それ以外はお互いに自分の所属する団体のタイトルに挑戦していた(もっぱらサンマルチノが馬場の持つ王座に挑戦する形ではあったが)。
WWWFは全日本プロレスと友好関係にあったが、1974年に新日本プロレスと提携した際も、馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し、全日本プロレスに出場しつづけ、WWWFとPWFのダブルタイトルマッチの実現に至っている。提携の際、サンマルチノとアントニオ猪木の試合が計画されていたが、参戦拒否を受けてこれも実現しなかった。
サンマルチノはキャディラックを愛車としていて、馬場もそれに倣った。そして車を買い換えるときも常にキャディラックを選び続けた。
サンマルチノはジャイアント馬場「引退試合」の際に「馬場、君に挨拶するために来た。君は体だけじゃなく、心もジャイアントだったね。君は全ての人に愛され、大切にされたすばらしい人物だった。今日この場にいられることをうれしく思うよ」とスピーチした。
[編集] 主な得意技
- マシンガンキック(ストンピング)
- ニーリフト
- ベアハッグ
- カナディアンバックブリーカー…初めてWWWF王者になったときのフィニッシュ技である。腰を負傷して以降は使用しなくなる。
[編集] 関連項目
- デビッド・サンマルチノ(長男)
カテゴリ: イタリアのプロレスラー | WWE