ジミー・スヌーカ
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ジミー・スヌーカ(Jimmy Snuka)のリングネームでの活躍で最も知られるジェームス・ロイハー(James Reiher、1943年5月18日 - )は、フィジー出身のプロレスラーである。
アメリカや日本で活躍し、スーパーフライ(Superfly)のニックネームを持つ。サモア系レスラーでヨコズナやリキシとは親戚の間柄にある。息子のジミー・スヌーカ・ジュニアもプロレスラー。
[編集] 経歴
ハワイでボディビルダーとして活動した後、1969年にアメリカのリングでプロレスデビューし、NWA加盟団体で活動。1971年には日本プロレスへの参戦を果たしている。NWA時代はリック・フレアー、リッキー・スティムボートとの抗争が有名であった(この抗争がきっかけで、3者とも逆水平チョップを得意技とするようになった)。
1974年から全日本プロレスへ参戦し、リッキー・スティムボート等をライバルとして戦う。1981年の世界最強タッグ決定リーグ戦ではブルーザー・ブロディとのタッグチームで優勝している。しかし、この時最終戦でともに乱入したスタン・ハンセンとブロディが組むようになると、ブロディと仲間割れして全日本プロレスを離脱。
1982年3月にWWF(現WWE)に所属。当初はヒールであったが、ボブ・バックランドとの抗争の中、金網マッチでの金網上からボブ・バックランド目掛けて飛んだハイフライムーヴにより、一躍多くのファンの喝采を集め、ベビーフェイスとなった。その後はバディ・ロジャースがマネージャー役に就くなど一躍トップスターとなり、またハイフライムーヴにより、前述のニックネーム『スーパーフライ』が付けられた。
1983年にマディソン・スクエア・ガーデンにて行われたドン・ムラコとの金網マッチでもスーパーフライを敢行している。この試合をリングサイド3列目で見ていたプロレスラー志望の大学生ミック・フォーリーは、これがきっかけで本気でレスラーになることを決めたという。
1984年には当時WWFの提携先でもあった新日本プロレスに参戦。IWGPリーグ戦へ出場した。またIWGPタッグ王座の初代王座を決めるリーグ戦では、当時新日本へ参戦していたブロディとコンビを再結成し出場したが、外国人レスラーに王座を与えない新日本プロレス側に反発してリーグ戦後の決勝戦を急遽キャンセルして帰国している(反発したのはブロディだけであり、スヌーカは巻き込まれただけだとする説が有力)。
WWFには1990年まで所属し、その後はインディ団体を転戦しつつ、ECWへも参戦した。1992年には初代ECWヘビー級王座にも就いている。1995年にはWARにボブ・バックランド、ミル・マスカラスと共に参戦した。
1996年にはWWE殿堂入りを果たした。2001年にはWCWへ出場。2004年にWWEとレジェンド契約を結び、折を見てストーリーラインに絡み、試合も行っている。
[編集] 得意技
- スーパーフライ
- スヌーカのダイビングボディプレス(またはフライングボディアタック)は『スーパーフライ』と呼ばれる。この名称は現在外道と田中将斗が受け継いでいる。正式に伝承されたわけではないが、技の完成度が高いため、ファンからも納得されている。
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