パトリック・クライファート
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パトリック・ステーフェン・クライファート(Patrick Steven Kluivert、1976年7月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の同国代表、オランダ・エールディビジ・PSVアイントホーフェン所属のサッカー選手(FW)。しばしば、オランダ語読みに近い「クライフェルト」などと表記されることもある。FIFA100に選ばれている。現在オランダ代表歴代最多得点者でもある。
アヤックスの育成組織での才能を見込まれて1994年にトップチームでデビュー。「黒いファン・バステン」とあだ名される程の高い得点能力を発揮して、その年のチャンピオンズリーグ決勝でゴールを挙げ、アヤックスに22年振りの欧州タイトルをもたらすとともに、オランダ代表としてデビュー。活躍を見込まれて1997年にイタリア・セリエAの名門クラブであるACミランへ移籍するが、実力を発揮できず、1年でバルセロナへ移籍。リーガ・エスパニョーラ制覇に貢献する。またEURO2000では得点王を獲得した。 そのプレースタイルは極めて個性的で、テクニカルなプレーを得意としトラップの技術は極めて高い。記憶に残る鮮烈なゴールを多く決める反面、イージーなシュートを外すなど、魅力的なプレーでファンを飽きさせず、「気まぐれの天才」とも呼ばれる。長身を生かしたヘディングとポストプレーも得意である。
バルセロナではエースとして活躍していたが、次世代のエースロナウジーニョの加入やライカールト監督の『脱オランダ路線』の方針により、徐々に出場機会が減り2004年から1シーズンはFAプレミアリーグ・ニューカッスル・ユナイテッドでプレー。2005年-2006年シーズンからはバレンシアへ移籍するも、1得点しか挙げられなかった。
2006-2007シーズン開幕前には新加入のフェルナンド・モリエンテスに背番号9を奪われ、半ば戦力外通告を受けていたが2006年8月31日、移籍市場が閉じる直前に母国オランダのPSVアイントホーフェンへ加入した。
なお、同じオランダ代表のルート・ファン・ニステルローイとは生年月日が全く同一。クライファートは彼を「理想のセカンドトップ」と評しているが、個人的な仲はかなり悪いといわれる。
また、バルセロナ時代は日本料理店を経営していた。現在は日本のミズノ社と契約している。何かと問題を起こす選手でもある。
[編集] 選手経歴
- 1994年-1997年 - アヤックス(オランダ)
- 1994年-1995年 25試合 18得点
- 1995年-1996年 28試合 15得点
- 1996年-1997年 17試合 6得点
- 1997年-1998年途中 - ACミラン(イタリア)
- 1997年-1998年 27試合 6得点
- 1998年-1999年 0試合 0得点
- 1998年途中-2004年 - FCバルセロナ(スペイン)
- 1998年-1999年 35試合 15得点
- 1999年-2000年 26試合 15得点
- 2000年-2001年 31試合 17得点
- 2001年-2002年 33試合 18得点
- 2002年-2003年 36試合 16得点
- 2003年-2004年 21試合 8得点
- 2004年-2005年 - ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド)
- 2004年-2005年 25試合 6得点
- 2005年-2006年 - バレンシアCF(スペイン)
- 2005年-2006年 10試合 1得点
- 2006年- 現 在 - PSVアイントホーフェン(オランダ)
- 2006年-2007年 --試合 -得点
PSVアイントホーフェン - 2006-2007 |
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