フランソワ・アラゴ
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フランソワ・ジャン・ドミニク・アラゴ François Jean Dominique Arago(1786年2月26日 – 1853年10月2日)はフランスの数学者、物理学者、天文学者で政治家である。物理学では光学や創成期の電磁気学に大きく寄与し、また政治家としても業績を残した。
ピレネー=オリアンタル県ペルピニャン近くの小村エスタジェルに4人兄弟の長男として生まれた。ペルピニャンの学校で数学を学んだ後、1803年にパリのエコール・ポリテクニクに入学したが、軍務を希望し、1804年に経度局の一員に任命された。ここでピエール=シモン・ラプラスの指導によりジャン=バティスト・ビオとともに子午線の測量(これに基づいてメートルの正確な長さを規定する目的があり、ドランブルJ. B. J. Delambreによって始められたがピエール・メシャンP. F. A. Méchainの死で中断していた)を完成する任務を与えられた。アラゴとビオは1806年にパリを発ちスペインで作業を開始した。ビオは途中で帰りアラゴだけが作業を続けた。しかしフランス軍がスペインに侵入したためアラゴの活動はスパイではないかと疑われ、1808年7月に捕らえられた。彼はほぼ1年間スペインやアルジェリアなどを転々とした苦難の末、マルセイユへ帰った。ここで受け取った最初の手紙はアレクサンダー・フォン・フンボルトからのものであり、その後彼らの交流は終生続いた。
アラゴは保管していた調査記録を帰還後すぐに経度局に提出した。その結果1809年に弱冠23歳で科学アカデミー会員に選ばれ、またエコールポリテクニクの解析幾何学教授(ガスパール・モンジュの後任)に選ばれた。同時に帝立天文台の天文学者としても指名された。
1816年にはジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックとともにAnnales de chemie et de physique(化学物理学年報)を創刊し、またビオとともにフランスおよびイギリスの沿岸で測量を行った。 1811年頃から光学の研究を行い、特にフレネルとともに行った偏光の研究で1816年に、光は波動であってその振動方向は進行方向に対して垂直であるとの結論に達した。
またその他の物理学研究としては、1816年頃の蒸気の温度と圧力、および音の速度についてのものがある。続いて磁気の研究を行い、1820年には電流による鉄の磁化を、1824年には回転磁気(磁針の下で銅の円板[アラゴの回転盤]を回転させるとその動きが磁針に伝わる現象)を発見し、のちの電磁誘導発見への道を拓いた。
また光の速度を測定する方法も1838年彼によって提案されたが、彼自身は視力の低下で細かい実験ができず、晩年になってフィゾーとレオン・フーコーによって実現された。
イギリス王立協会から、1825年にコプリ・メダルを、また1850年にランフォードメダルを受賞した。
政治的には一貫して共和主義を支持していたアラゴは1830年にピレネー=オリアンタル県から下院議員に選ばれ、教育、発明者への褒賞、科学技術振興などに成果を残した。たとえば写真を発明したルイ=ジャック・ダゲールに対する褒賞や鉄道および電信の発展などは彼の主張によるものである。1830年にはまたパリ天文台長にも任命された。同年フーリエの後任として科学アカデミーの終身会長にも選ばれた。
1848年まで彼は研究中心の比較的平穏な生活を送ったが、2月革命に際しては研究を離れて臨時政府に参加した(1848年2月24日)。彼は海軍・植民大臣(1848年2月24日 – 5月11日)ならびに陸軍大臣(1848年4月5日 – 5月11日)という重要ポスト(かつて同一人が任命されたことはない)に任命された。前者として彼は海軍の民主的な制度改革を行い、さらにフランス植民地での奴隷制の全廃を成し遂げた。1848年5月10日に彼は行政権力委員会(フランス共和国の最高機関)の委員に選ばれ、さらに5月11日に議長(暫定大統領)となり6月24日まで務めた。
1851年にルイ・ナポレオンがクーデタで権力を握り、翌年5月初めに政府全職員に対し忠誠の誓約を求めると、アラゴはこれを拒否して天文台長の職を辞した。このころから病気がちとなり、1853年世を去った。
同時代の文学者や芸術家とも交流があり、バルザックの『絶対の探求La Recherche de l'Absolu』(地方貴族が化学研究の魅力にとりつかれ、ついには全財産を使い果たす物語。1834年)は彼との対話から着想されたといわれている。