ブルガリアの歴史
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[編集] 古代
いまのブルガリアにあたる地域には古代にはトラキア人が居住していた。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王に征服され、ギリシア化した。さらに、紀元前1世紀にはローマの属州となった。
[編集] 中世のブルガリア
ローマの衰退にともないゲルマン民族のゴート人がこの地域に侵入。続いて遊牧民族のアヴァール人が侵入してきた。そして6世紀までにはスラヴ人(南スラヴ人)が居住。これをテュルク系のブルガール人が征服にて681年にブルガリア帝国を建国した。ブルガール人は先住民族のスラヴ人と同化してブルガリア人を形成し、南方の東ローマ帝国からビザンティン文化を受容し、9世紀の終わりにはギリシア正教に改宗した。10世紀、シメオン1世のころには最盛期を迎えるが、東ローマ帝国のバルカン半島征服の結果、1018年にブルガリア帝国は東ローマ皇帝バシレイオス2世によって滅ぼされた。
東ローマ帝国の支配の後、12世紀には独立を回復し第二次ブルガリア帝国を樹立する。しかし、ほどなく小国に分裂。1331年セルビア王国に征服される。セルビア王国が1389年にオスマン帝国にコソボの戦いに敗れると、ブルガリアはオスマン帝国の版図に組み入れられた。オスマン帝国の支配はおよそ500年続き、ブルガリア語はトルコ語の影響を受けるようになった。
[編集] 近代のブルガリア
19世紀に民族主義の気運が高まり、1853年のクリミア戦争ではロシア軍の諜報員や軍事顧問が数多く派遣されて情報組織がつくられた。しかし、バルカン半島の戦線が早々に膠着した上に主要大国が敵対あるいは中立するかたちとなったためロシア軍の支援が得られず組織も目立った成果を挙げることなくオスマン帝国の弾圧にあって崩壊。パリ講和会議では当初の目的だったスラヴ人保護は棚上げにされ、さらにブルガリアは深刻な経済危機に見舞われることになった。1876年には四月蜂起と呼ばれる武装蜂起が起こったが、オスマン帝国はこれを鎮圧し、多くのブルガリア人が犠牲となった。この事件をきっかけに南下政策をとるロシアが「バルカン解放」を唱えてブルガリアに出兵(汎スラヴ主義)し、1877年に露土戦争が勃発する。この戦争ののちサン・ステファノ条約に基づきブルガリアは自治権を獲得。一旦は大ブルガリア公国が建国されたものの、ブルガリアがロシアの影響下におかれることを危惧した列国はベルリン会議によってブルガリアの処遇を変更した。この結果、バルカン山脈を境に北部がブルガリア自治公国、南部が東ルメリ自治州とされ、大ブルガリア公国は分割された。
1908年に青年トルコ人革命がオスマン帝国で勃発すると、オーストリア・ハンガリー帝国の助力でブルガリアは独立を宣言し、大公フェルディナンド1世はツァーリ(国王、皇帝)を称する。翌年1909年4月19日にオスマン帝国が、すでにブルガリアの独立を承認しているロシアとの戦争の賠償の肩代わりにするという条件でブルガリア政府と議定書を交わし、ブルガリア帝国として独立。ロシアに続き、列国もこれを承認する。その後セルビア、モンテネグロ、ギリシアとともに第1次バルカン戦争を戦い勝利する。この結果ブルガリアは領土拡大に成功するがマケドニアの領有をめぐりセルビア、ギリシャと対立。1913年第2次バルカン戦争を起こす。この戦争でブルガリアは敗北。マケドニアはセルビアに奪われ、ドブロジャ地方をルーマニアに奪われ、更に東トラキアはオスマン帝国に奪われる。 第一次世界大戦には中央同盟国側で参戦し、敗北。ヌイイ条約ではエーゲ海沿岸をギリシアに割譲した。敗戦後、ブルガリアの政局は混迷したため、ボリス3世の親政が行われた。
[編集] 第二次世界大戦から冷戦、民主化
第二次世界大戦では枢軸国側に着く。1941年にユーゴスラビアとギリシアが枢軸側に降伏すると、ユーゴスラビア南東部とギリシア東部はブルガリアが占領統治を行った。ブルガリアはソ連に対し宣戦布告を行っていなかったが、1944年9月5日にはソ連軍がブルガリアに宣戦布告し、領内への進入を開始した。ブルガリア軍は無抵抗であった。9月9日にはクーデターにより、政権交代が行われ、対ドイツ戦を開始することとなった。
1946年には祖国統一政府により、国民投票の結果王政が廃止され、人民共和国となった。 オスマン帝国からロシアに解放されたこともあり、冷戦の時は親ソ連の体制をとりソ連16番目の共和国と呼ばれる。
ゴルバチョフが登場しペレストロイカが展開され、社会主義陣営に動揺が生じ、1989年にベルリンの壁崩壊に象徴される東欧民主化の運動はブルガリアにも波及した。1989年11月10日にはジフコフ共産党書記長は辞任。これを受けて非共産主義勢力の活動が活発となり市民団体が組織された。そして11月18日には環境保護と情報公開を求める市民団体が首都ソフィアのアレクサンデル・ネフスキー広場で集会を開催。5万人を越す民衆で広場は埋め尽くされた。集会では35年間にわたるシジコフ政権への不満と批判が噴出、さらに共産党1党独裁の放棄、複数政党制の導入、言論出版の自由、集会の自由、自由選挙の実施が叫ばれ、参加者も拍手でそれに呼応した。翌月には反体制同盟「民主勢力同盟」が発足し、共産党独裁体制は崩壊した。1990年には国名を「ブルガリア人民共和国」から「ブルガリア共和国」に改称。1992年には、民主化後初めての選挙が行われ、民主的勢力同盟のジェレフ大統領が再任された。