ヘッセン王朝
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ヘッセン王朝は、1720年から1751年まで続いたスウェーデンの王朝。1代限りの王家である。広義には、前王朝プファルツ王朝の継続王朝として扱われる事もある。
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[編集] 概要
ヘッセン王家は、ドイツ・神聖ローマ帝国諸侯ヘッセン=カッセル方伯よりスウェーデン王に推戴された。大北方戦争において、カール12世に後継者がいなかった為、カール12世の妹であるウルリカ・エレオノーラと結婚していた伯子フレデリックが継承者として1720年に戴冠した。
当時のスウェーデンは、ロシア帝国などの相手にした大北方戦争に敗れていた為、大国時代の面影を失っていた。この様な中で国王となったフレデリック1世は、王権を制約された事実上の立憲君主となった。1730年には、ヘッセン=カッセル方伯も継承するが、王妃ウルリカ・エレオノーラとの間に嫡子はなく1代で断絶する事が確実となった。なお、ヘッセン=カッセル伯については、フレデリックの弟が継承し、ヘッセン家は、血筋を保った。
この時代のスウェーデンは、大北方戦争以後の没落の時代であった。国政は、議会にあり、王権は弱体化している。しかし戦後、スウェーデンがヨーロッパの動向に対し中立の立場を取った事で、国内は安定し、スウェーデンは文化面で成熟期を迎えた。大北方戦争以後の1720年代から1770年までをスウェーデンでは、「自由の時代」と呼ばれる様になった。
1744年、嫡子のいないフレデリック1世に代わり、スウェーデン議会は、ホルシュタイン・ゴットルプ家を王位に推戴した。1751年、フレデリック1世は没し、ここにヘッセン朝は幕を閉じる事となった。
[編集] 年表
- 1719年 新統治法制定。事実上の立憲君主制
- 1720年 フレデリック1世即位。メッソナ党政権
- 1721年 ニスタット条約、大北方戦争終結
- 1730年 フレデリック1世、ヘッセン・カッセル方伯を継承
- 1731年 スウェーデン東インド会社設立
- 1738年 ハッテナ党政権
- 1739年 スウェーデン王立アカデミー設立
- 1741年 ロシアと戦争(-1743年、ロシア・スウェーデン戦争)
- 1744年 ホルシュタイン=ゴットルプ家を後継者に推戴
- 1751年 フレデリック1世没。ホルシュタイン・ゴットルプ王朝開始
[編集] 関連項目
- ヘッセン=カッセル方伯
- フレデリック1世
- スウェーデン東インド会社
- スウェーデン王立アカデミー
- アルヴィド・ホルン
- メッソナ党とハッテナ党
[編集] 疑惑
フレデリック1世は、カール12世の謎の死に関与しているとも言われている。カール12世の死は、流れ弾によるものとされて来たが、20世紀後半に入り、暗殺の可能性が高まり、決着を見ていない。その様な中で、ヘッセン家あるいはフレデリック1世による王位簒奪との説も浮上している。事実、カール12世の死の直前まで、ホルシュタイン・ゴットルプ家の継承権が優先されていた。しかし証拠は何一つ発見されておらず、18世紀のスウェーデン貴族による証言のみである為、フレデリック1世の黒幕説には明確なものは一切無い。また暗殺説を否定する説も根強い。
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