ベイルート
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ベイルート(アラビア語بيروت 、フランス語: Beyrouth)は、レバノンの首都であり、ベイルート県の県都でもあり、同国最大の都市である。また、地中海に面した同国第一の海港である。ベイルートには約180万人が居住している。
住民が、キリスト教徒(マロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教 、アルメニアカトリック 、ローマ・カトリック、プロテスタント)、イスラム教徒(スンニ派、シーア派)、さらにはドゥルーズ派のような少数派に分かれている、中東で最も文化的に多様な都市の一つである。ベイルートのユダヤ人の大部分は、1975年に戦争が始まった際アメリカ合衆国に移住し、現在はニューヨーク市のブルックリン地区に住む者が目立っている。ベイルートは、レバノン内戦の間に分裂し、イスラム教徒地区の西部と、キリスト教徒地区の東部に分割された。
ベイルートは、この地域における商業、銀行業及び金融の中心地であり、ベイルート・アメリカン大学、サン・ジョセ大学、ビジネス・コンピューター大学、Hagazian大学、レバノン大学、アメリカン・レバノン大学、アメリカン科学技術大学、ベイルート・アラブ大学など21の大学がある。また、2006年2月に東京外国語大学中東研究日本センターが開所した。
市の南の郊外にあるベイルート国際空港が、最寄り空港である。
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[編集] 歴史
元々ベイルートは、フェニキア人によって、Beroth、つまり泉の街と名付けられた。
ベイルートは、長きにわたって東地中海の交易の中心地であり続けた。中世のほとんどは、アラブ最大の交易の中心地としての地位をアッコに譲っていたが、18世紀になると、ベイルートは、ダマスカスの支援を得て、アッコによる交易の独占を打破することに成功し、瞬く間にアッコに代わってこの地域の取引の中心地となった。ベイルートは非常に国際色豊かな都市になり、ヨーロッパやアメリカ合衆国とも緊密な関係を持っていた。ベイルートは布教活動の中心地になり、市民全体を改宗させるという意味では大きな成功を収めることはなかったが、注目すべき教育制度が構築された。その一つの例がアメリカの宣教師が設立したシリア・プロテスタント大学であり、同校は、その後ベイルート・アメリカン大学になった。19世紀になると、ベイルートは、アラビア人の知的活動の中心にもなり始めた。ベイルートは、レバノン山付近で産出する絹の輸出によって繁栄した。交易品の多くはフランスの船によってマルセイユに運ばれ、この地域におけるフランスの影響力が、速かに他のヨーロッパ列強の影響力をしのぐようになった。ベイルートは、中東のパリとも呼ばれた。
第一次世界大戦に引き続きオスマン朝が崩壊すると、ベイルートとレバノン全域はフランスに与えられた。フランス統治の下では少数派のキリスト教徒が非常に優遇されたため、ベイルートでは宗教間の緊張が高まることになった。第二次世界大戦後、レバノンは独立を与えられ、ベイルートはその首都となった。ベイルートは、アラブ世界の知的首都であり、商業と観光の主要な中心地でもあり続けたが、それも1975年にレバノンで凄惨な内戦が勃発するまでであった。内戦のほとんどの期間、ベイルートは、イスラム教徒の西部(ベイルートの大部分)とキリスト教徒の東部に分割された。かつて商業や文化活動の軌跡をとどめていた市街地は、無人地帯になった。ベイルートの上流階級や知識人の多くが他国に逃れた。内戦の終結後、レバノンの人々はベイルートを再建しつつあり、ベイルートは、中東における観光、文化、知的活動の中心としての地位を回復しており、商業やファッション、報道の中心ともなりつつある。
ただ2006年のイスラエル軍によるレバノン侵攻により、街は再び打撃を受けた。
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[編集] 関連項目
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