ホテルニュージャパン
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ホテルニュージャパン (Hotel New Japan) は、東京都千代田区永田町のプルデンシャルタワーの場所にかつてあったホテル[1]。
1960年に開業するが、1982年の火災で33人の死者を出し、閉鎖された。
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[編集] ホテル概要
東京オリンピック開催を目前とした第二次ホテルブームを見込んで1960年開業。建物本体は大隈講堂(佐藤功一と共同設計)などの作品で知られる佐藤武夫、内装はわが国を代表する工業デザイナー剣持勇[2]がそれぞれ担当した。当時は東洋最大の格式を謳い文句に、旅館部とホテル部の設置、日本初のトロピカルレストランやオープンカフェ、ショッピングアーケードを構えるなど画期的なアイディアが盛り込まれていた。だが、その後に開業したホテルニューオータニや東京ヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル)・ホテルオークラと比較すると、ノウハウ、規模・設備に見劣りすることや莫大な借入金の負担から苦戦を強いられた[3]。 地下フロアには高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」[4]があったが、こちらも豪勢ではあったものの、1960年代後半からすでに流行や時代の波に取り残されていた[5]。
営業当時の建物は、間隔が120度の「Y字型」の大きなビル、さらにその先端にやはり間隔120度、同じ奥行きの「Y字型」枝があるというフラクタル構造の形をした建築であった。これは全室景色が見られるよう図られたためであるが、その結果まるで迷路のような内部空間となり後の火災発生時にも避難を困難にした原因となった[6]。
後に、買収王横井英樹がホテルを買い、自らホテルニュージャパンのオーナー社長を務め、合理化を徹底したホテル経営をしていたが、1982年に大規模な火災(後述)を起こして営業停止処分を受け廃業した。
ホテルニュージャパン火災事件の後、千代田生命保険がオーナー社長の横井英樹向けの貸付金が回収不能となった時に、貸付金の担保であったニュージャパンを競売により売却することで資金の回収を図った。しかし、火災等のいわくつきの土地をあらためて購入する投資家は見当たらず、千代田生命が自己落札し自ら敷地を保有することとなった。その間、都心の一等地でありながら廃墟のまま放置され続けていたが、火災から14年後の1996年にホテルは解体された。千代田生命が跡地の再開発事業に着手するが、千代田生命は2000年10月に経営破綻。現在は外資のプルデンシャル生命が買収し、森ビルと共同でプルデンシャルタワーを建設(千代田生命によりビル自体は建設中であった)。2002年12月16日に完成した。
[編集] ホテルニュージャパン火災事件
1982年2月8日に火災が発生し、ホテルの宿泊客を中心に死者33名を出す大惨事となった[7]。主に火元の9階と10階を中心に燃え火災による死者だけでなく、有害ガスを含んだ煙から逃れる為に窓から飛び降りて命を落とした人もいた[8]。また炎は軽微な焼損も含めると下は5階にまで達しており、上部階だけでなく下部階にも延焼していったことがわかる。
延焼範囲が広がった原因は、度重なる消防当局の指導にも拘らずホテルニュージャパン側が改善しなかったスプリンクラー設備の不備[9]・火災報知器の故障やホテル館内放送設備の故障および使用方法の誤り・客室壁内部の空洞施工[10]・宿直ホテルマンの少なさ・ホテルマンの教育不足による初動対応の不備・客室内の防火環境不備(可燃材による内装など)といった複合的要素による火災だったという調査が発表された。
この火災では延べにして9時間にわたり燃え続け、東京消防庁では最高ランクの出場態勢である「火災第4出場」を開庁以来初めて発令(所管下でない東久留米・稲城を除く全ての消防署が臨戦態勢となる)。はしご車12台を始め消防車・救急車約120台が出場し、消防総監が直接指揮を執るという全庁を挙げての消火活動を行った[11]。
また、この火災が起きた翌朝に福岡発羽田行きの日本航空機が東京湾に墜落し、相次ぐ惨事に東京消防庁やマスコミは対応に追われた。
これらのホテルニュージャパン火災事件における数々の違法運営によりオーナー社長の横井英樹は業務上過失致死傷罪で有罪判決を受ける[12]。横井は火災発生現場で報道陣に対して拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」と言ったり、「悪いのは火元となった宿泊客だ」と発言したりした。また火災当時、人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示したとされる[13]。このような対応が国民からの厳しい非難を呼んだ[14]。
[編集] 脚注
- ^ 二・二六事件の際に部隊が立ち寄った日本料亭「幸楽」の跡地だった。
- ^ 剣持勇の担当した内装は同ホテルのラウンジチェアがMOMA(ニューヨーク近代美術館)の永久収蔵品に選定されるなど今なお評価が高く、同氏の提唱したジャパニーズモダンの様式を体現したホテルという側面も有している。
- ^ 母体となったのが藤山愛一郎一族率いる藤山コンツェルンであり、愛一郎の政界進出の煽りでグループが解体に向かうなど、落日の象徴ともいえるホテルであった。
- ^ 1963年に力道山が暴力団員に刺され(後に死去し)た現場である。
- ^ このナイトクラブはホテルニュージャパンとは別営業であり、ホテルが火災に遭い廃業した後も1989年まで営業を続けていた。
- ^ 最初同ホテルが高級アパートメントとして計画された影響も大きかった。
- ^ 出火原因は9階に宿泊していたイギリス人の男性宿泊客の寝タバコが原因と言われている。
- ^ なおイギリス人宿泊客は938号室に泊まっていたが、部屋の前を通る通路の右手奥の行き止まりのところで焼死体となって発見されている。
- ^ 散水孔に配管はなく、天井に部材を接着していただけの偽装だったという。
- ^ これでフラッシュオーバーと呼ばれる現象が発生し、被害が拡大した。
- ^ この火災における東京消防庁麹町消防署永田町出張所特別救助隊員の救出劇は、NHKの『プロジェクトX』で「炎上―男たちは飛び込んだ~ホテルニュージャパン・伝説の消防士たち~」として2001年5月22日に放送された。
- ^ 最高裁平成5年11月25日決定-刑法判例百選I58事件、禁錮3年の実刑。
- ^ その一方で同ホテルに保管されていた藤山愛一郎による中国近現代史料コレクション「藤山現代中国文庫」が焼失している。
- ^ 同ホテルを事務所としていた戸川猪佐武もホテル火災で損害を受け、他のテナントと共に横井を訴えている。
[編集] 関連項目
[編集] 出典・外部リンク
- 特異火災事例:ホテルニュージャパン - 消防防災博物館による。 (pdf)
- ホテル・ニュージャパン - ポンチハンターによる。往時のホテル玄関付近の写真。
- ホテル・ニュージャパン火災 - ざ@永田町。出火時の写真等。
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