ホレイショ・キッチナー
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ホレイショ・ハーバート・キッチナー(The Right Honourable Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener, 1850年6月24日 - 1916年6月5日)はイギリスの陸軍軍人。最終階級は元帥。初代キッチナー伯、ガーター勲爵士、聖パトリック勲爵士、バス最上級勲爵士、メリット勲爵士、インドの星最上級勲爵士、聖ミカエルおよび聖ゲオルギウス最上級勲爵士、インド帝国最上級勲爵士、ヴィクトリア女王付き副官、枢密顧問官の称号を持つ。第一次世界大戦が開幕すると陸軍大臣に任命され、1916年の死までその職を務めた。
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[編集] 誕生
キッチナーはアイルランド南西部ケリーカウンティーのBallylongfordで父ヘンリー・ホレイショ・キッチナーと母Frances Anne Chevallier-Coleの間に生まれた。幼少期はスイスの寄宿学校で教育を受け、その後本国の陸軍士官学校に入学した。士官学校を卒業し工兵部隊に所属する以前、1871年の普仏戦争の際にはフランス軍への参加を試みている。その後測量部隊の将校としてパレスチナ、エジプト、キプロスで任務に就きつつアラブ語を学んだ。
その後アナトリアの副領事に就任、1884年にはスーダンにおけるゴードン将軍救助隊の副官を務めた。この際彼のフィアンセであったハーマイオニー・ベーカーがチフスによりカイロで亡くなっている。彼はその後結婚することがなく子も存在しないが、その後、母方の従兄弟の娘を育てている。
[編集] エジプト、スーダン、ハルツーム
1886年から1899年にかけて行われた二度目のスーダン遠征により彼は国民的名声を得た。戦功によりヴィクトリア女王の副官に任命され、バス勲位を授与された。大英帝国の駐エジプト軍の司令官(サーダー)となった彼は1898年9月2日オムダーマンの戦いでマハディ軍を破り、その数ヶ月後ファショダ事件が発生するとフランス軍部隊に対し断固とした態度をとりイギリスのスーダン支配を決定づけた。
1898年11月18日これらの功により男爵位を授与された。彼は引き続きスーダンにとどまり、鉄道の施設、高等教育に力をいれた。ハルツームのモスクの修復を命じ、イスラム教の休日である金曜を休息日とした。スーダンにおける信仰の自由をさだめ、キリスト教の宣教師の活動の抑制に努めた。
[編集] ボーア戦争
第二次ボーア戦争(1899年 - 1902年)が始まると、フレデリック・ロバーツと共に1899年12月に到着した増援軍の指揮をとり、1900年にロバーツが病気により後送された後はイギリス軍の総指揮をとった。
ボーアの正規軍に勝利した後、1901年2月にイギリス政府が和解交渉を決裂させると、キッチナーはロバーツのたてた計画に従い、ボーア側指導者の一部と通じてボーアゲリラ内部に対立を引き起こした。
凄惨な戦闘が続く中で、ボーア軍は市民の家や農場を破壊したため、市民はイギリスの用意した収容所へと移らざるを得なくなった。当初は住処をなくした人々の為の人道的措置として始まったこれらの収容所の状況は、ボーア市民の流入が増大するにつれ急激に悪化していった。1901年後半には大部が改善されたものの、これらの収容所の存在は国内外の厳しい非難を浴びた。
ボーア軍のとった戦術の一つに、イギリス軍捕虜の制服を奪いそれを身につけて偽装することがあった。キッチナーはボーア人兵士がイギリス軍の制服を身につけていた際には、その場で即決の裁判を行い、処刑するように命じた。キッチナーはその後この命令を発した事を否定したが、この命令はブリーカー・モラントの裁判(捕虜となったボーア軍指導者、子供を含む民間人、アフリカ人、ドイツ人宣教師の殺害により軍法会議にかけられ、死刑となった)の遠因となった。
1902年ヴェレーニギングで調印された講和条約によって6ヶ月間続いた戦闘は終わった。この間キッチナーはボーア軍だけでなく、ケープ植民地の高官、本国政府も相手にしなければならなかった。講和条約により、ボーア人による自治が一部認められ、1910年に就任した南アフリカ連邦初代首相にはキッチナーが1901年に行った和解交渉の相手であったルイス・ボーサが就任している。講和の6ヶ月後、キッチナーに子爵位が与えられた。
[編集] インド、再びエジプト
キッチナーには英印軍の司令官(1902年 - 1909年)の地位が与えられ、インド軍の立て直しに尽力した。キッチナーは1910年に元帥に昇進し、翌年インド総督、1911年から1914年にはエジプト・スーダン総督を務めた。1914年6月には伯爵位が与えられ、妻子のいなかった彼の為に兄弟・姪への相続が特別に定められた。
[編集] 第一次世界大戦
サラエボ事件により第一次世界大戦が開幕すると、アスキス首相はキッチナーを陸軍大臣(Secretary of State for War)に任命した。短期戦に終わると予想する閣僚たちの楽観論に対して、キッチナーは戦争が少なくとも数年は続き、これまでの戦争からは考えられないほどの犠牲を必要とすると正確に予言してみせた。
彼の指導のもと、大規模な新兵募集が開始された。指を突きつけたキッチナーの顔を配したポスターは後に大戦の象徴とされるようになった。この募兵により300万人もの国民が入隊し、この募集兵は既存の職業軍人に対してキッチナー・アーミーと呼ばれた。
膠着状態に陥った西部戦線への圧力を弱めるため、キッチナーはANZACを用いたアレクサンドレッタへの侵攻を提案した。アナトリア半島の付根に位置しキリスト教徒が多く住むアレクサンドレッタはオスマン帝国中心部から中東へ向かう鉄道網の起点であった。しかし紆余曲折の末、当時海相であったチャーチルの主張した英仏艦隊によるイスタンブール攻略とガリポリへの上陸戦が決定され、オーストラリア、ニュージーランドの義勇兵を中心としたANZACはガリポリで大きな損害を被った。チャーチルは免職され、キッチナーは1915年の砲弾危機(Shell Crisis)もあり、アスキス首相に辞任を申し出た。アスキスはこれを慰留しキッチナーも職にとどまったが、軍需品に関する責任はロイド・ジョージ軍需大臣に移った。1916年3月に計画されたロシアへの使節派遣ではキッチナーとロイド・ジョージが派遣されるとことが決定したが、ロイド・ジョージは新設の任務に対処するためキッチナーが海路単独でロシアへ向かうことになった。
[編集] その死
キッチナーはスカパ・フローから装甲巡洋艦ハンプシャーに乗り込みロシアのアルハンゲリスクへとむかった。1916年6月5日、ハンプシャーはオークニー諸島の西で被雷し沈没した。キッチナーとその幕僚、655人の乗組員の内、643名が溺死した。キッチナーの遺体は発見されなかった。同じ日にキッチナー・アーミーの最後の師団がドーバー海峡を渡り、西部戦線が横切るフランダースへと向かっている。
彼の死から一月後、優れた業績を記念してキッチナー卿記念財団が組織された。財団は戦争による負傷者への物質的、経済的援助を送る事を目的としている。第一次世界大戦が終結した後は、帰還兵やその子弟に高等教育を受けさせる奨学金として用いられ、現在に至っている。