ウィンストン・チャーチル
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在任期間: | 1940年5月10日-1945年7月27日 1951年10月26日-1955年4月7日 |
前首相: | ネヴィル・チェンバレン クレメント・アトリー |
次首相: | クレメント・アトリー アンソニー・イーデン |
生年月日: | 1874年 11月30日 |
没年月日: | 1965年 1月24日 |
出身地: | オクソン, ウッドストック |
所属政党: | 保守党、自由党 |
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家である。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導いた。 2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。
目次 |
[編集] 出自と幼年期
チャーチルは、1874年11月30日にオックスフォードシャー州ウッドストックのブレナム宮殿に生まれた。ブレナム宮殿は、チャーチル家の祖先マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレンハイムの戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から贈られた大邸宅である。
父ランドルフ・チャーチルは第7代マールバラ公の息子で、保守党の領袖であり蔵相をつとめた政治家であった。また、母はアメリカの銀行家レナード・ジェロームの娘で、社交界の花形であったジャネット(ジェニー)である。
幼年時代に寄宿学校(ハーロー校)に入れられ、厳格な教育を受けた。生来は左利きだったが右利きになることを強要され、後遺症に苦しめられる。彼の学校時代の成績は終始ふるわず、士官学校に入るのにすらたいへんな時間がかかった。
1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校卒。騎兵隊少尉任官。その後、軍事顧問としてキューバやインドに赴き、本国の雑誌に記事を寄せた。1899年のボーア戦争に従軍記者として参加。敵に捕われるが、脱走に成功。1900年、保守党から下院選挙に出馬し、初当選。
[編集] 年譜
1904年、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、自由党に移籍した。1906年の総選挙で自由党が勝利するとその有力政治家として頭角を現し、植民地相次官、商務相、内務相を歴任した。
[編集] 第一次世界大戦期
1911年、チャーチルは海軍相となり、在任のまま第一次世界大戦を迎えた。しかし、敵国となったオスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブルの入り口であるダーダネルス海峡制圧をねらって彼が推進したガリポリの戦い(1915年)はイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判され、内閣を去らねばならなかった。
1917年、チャーチルはロイド・ジョージ内閣の軍需相として政権に復帰した。チャーチルは戦争推進のために意欲的に働き、1919年以降はロシア革命に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。1921年、彼は植民地相に転じ、アイルランド自由国の独立を認めた英愛条約(イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。
1922年には落選して政権を去ったが、この間「反社会主義」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。1924年の選挙では保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、スタンリー・ボールドウィン内閣の財務相に就任した。
1929年、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣しなかった。この不遇の時期、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆など、著作活動に専念した。
[編集] 第二次世界大戦期
1939年9月にポーランドに侵攻したアドルフ・ヒトラー率いるドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海軍相に就任した。1940年にはネヴィル・チェンバレン首相の後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の幕僚長を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。
チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していきバトル・オブ・ブリテンを勝利に導くなど、強力な指導力を見せることになる。戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談、ポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の1945年の春におこなわれた総選挙で保守党は敗北し、チャーチルは政権を退いた。天皇制は日本の癌であるとして廃止すべきだと主張した。
[編集] 冷戦期
その後、トルーマン大統領の招きでアメリカを訪問し、各地で演説を行ったが、1946年3月5日にミズーリ州で行った演説でヨーロッパの東西分断を評した「鉄のカーテン」演説を行い、アメリカ・ソビエトを軸にした冷戦の到来を予言した。
1951年の総選挙で保守党が勝利すると、チャーチルは再び首相に就任したが、二度目の政権は国際問題に悩まされ、大英帝国の衰退を告げる下り坂の時代に終始した。また、脳卒中の発作にも悩み、アンフェタミンを服用しなければ演説が出来ない程までに体力は低下していた。
まず選挙の年には、イランでモハンマド・モサデク首相がイギリス系の石油会社アングロ・イラニアン石油の国有化を宣言し、イランの石油権益が失われた。植民地ケニアでは、キクユ人による抵抗運動から1952年に非常事態宣言が発令されてマウマウ戦争に発展し、イギリスは植民地政策の転換を迫られた。マレーシアでも独立の機運が高まって反英ゲリラの闘争が頻発し、近い将来にマレーシアが独立することを承認せざるを得なくなった。
1955年、チャーチルは首相職をアンソニー・イーデンに譲り、引退した。1963年にはアメリカから名誉市民権を贈られたが、チャーチルはその頃には病気で式典に出ることができなかった。1965年1月24日、チャーチルは病没し、平民のためとしては史上初となる国葬によって葬られた。
[編集] 寸評
チャーチルは第二次世界大戦時の指導者として、非常に国民から敬愛されていた政治家であった。ビートルズなどで活躍したジョン・レノンのミドルネーム「ウィンストン」は、チャーチルのファーストネームを取ったものである。
葉巻愛好家としても知られ、葉巻のサイズ「チャーチルサイズ」として名を残す。
躁うつ病を煩い、また強度のアルコール依存症でもあった。 中でもマティーニを好み第二次大戦中には原料の一つであるホワイトベルモットを睨みつつジンを飲むと言われた。(当時のホワイトベルモットはドイツ製が多くもちろん飲むジンはイギリス製である)
彼は優れた演説家であり、「鉄のカーテン」演説をはじめ多くの名言でも知られる。一方で、チャーチルの発言としてまことしやかに巷間伝わるものの中には、全くのでっち上げもある。その例としては「25歳のときリベラルでない者は情熱が足りない。35歳のとき保守主義者でない者は知恵が足りない」(エディンバラ大学のポール・アディソンによると、チャーチル自身は15歳のとき保守主義者で、35歳のときリベラルだった為、右翼とは言えない)や、「一国の宰相となるよりも、ダービー馬のオーナーになる方が困難である」などがある。しかしながら、こうした言葉の発言者として名前が出ること自体、彼の演説家としての評価の高さを裏付けるものであると言える。
チャーチルは目的の為には手段を問わない現実主義者として有名である。例えば趣味の絵画においても、デッサンの代わりに写真を下書きに使ったという逸話が残っている。
2002年のイギリスのBBCが行った「時代を超えた最も偉大なイギリス人」と言う視聴者投票の番組の結果では1位に輝いた。
また、チャーチルは文才に優れ、『第二次世界大戦回顧録』などの著作活動でも評価を受けた。2度目の首相在任中の1953年には、ノーベル文学賞を受賞している。
一方、戦時の指導者や文人としての才能とは裏腹に、国際経済・金融に対する理解や関心は低く、同時代のイギリス経済を主導した経済学者のジョン・メイナード・ケインズから度々批判されている。
[編集] 名言
- 「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。」
- 「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。」
- 「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう。」
- 「絶対に屈服してはならない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に。」
- 「我々は、たとえその社会的地位がどんなに低くとも、後世に何らかの影響を与えることを考慮して生きなければならない。」
- 「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが。」
- 「人類ははじめて自分たちを絶滅させることのできる道具を手に入れた。これこそが人類の栄光と苦労のすべてが最後の到達した運命である。」
- 「戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。」(第一次世界大戦に際して)
[編集] 著書
[編集] 関連項目
- バトル・オブ・ブリテン
- 蒋介石
- 宋美齢
- フランクリン・D・ルーズベルト
- ヨシフ・スターリン
- ピースサイン - チャーチルが始めたとされる。
- 日中戦争
- 中国国民党
- ウィンストン・S・チャーチル (ミサイル駆逐艦)
- セカンダラバード(インドの都市、軍隊時代に赴任)
[編集] 外部リンク
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