ホワイトフォンテン
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性別 | 牡 |
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毛色 | 芦毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1970年5月12日 |
死没 | 1996年3月3日 |
父 | ノーアリバイ |
母 | レベッカの弐 |
母の父 | ダイハード |
生産 | 旭ヶ丘牧場 |
生国 | 日本(北海道門別町) |
馬主 | 吉橋計 |
調教師 | 大久保勝之(中山) |
競走成績 | 50戦11勝 |
獲得賞金 | 1億4390万5400円 |
ホワイトフォンテン は、日本の競走馬。芦毛の逃げ馬で、父親の名前(ノーアリバイ)と毛色から「白い逃亡者」の異名をとり、マニアには同期のハイセイコーに勝るとも劣らぬ人気を誇った。
[編集] 現役時代
ホワイトフォンテンは1972年秋にデビュー、2戦目の新馬戦を後の桜花賞馬・ニットウチドリを相手に勝ち上がり競走馬生活をスタートした。 その後4つの勝ち鞍をあげるが、流石にクラシックは荷が重かったのか唯一出走した1973年日本ダービーは先行策に打って出るも24着惨敗に終わっている。
その後は1974年秋に久し振りの勝利を収めると、中冬S・日本最長距離Sを鮮やかに逃げ切って見せたのである。 その後、再び惨敗街道に突入したかと思われたが、1975年ブービー人気の日本経済賞を逃げ切り重賞を初制覇。フジノパーシア・スルガスンプジョウ・イチフジイサミと言った強敵を相手にしての大偉業達成(単勝万馬券)であった。
その後は、同年の毎日王冠を7番人気で逃げ切り。翌1976年にはアメリカジョッキークラブカップをまたもやブービー人気で逃げ切り勝利。更に日本経済賞を4番人気で逃げ切って同レースを連覇し、重賞は4勝目を数えた。
しかし、日本ダービー以来の八大競走挑戦となった天皇賞(秋)では、ロングホークに先手を取られ見せ場すら作れず、勝ち馬アイフルから大きく離された最下位に惨敗。 翌1977年1月23日、引退レースの予定だったアメリカジョッキークラブカップでは、本馬場入場の前に故障を発生(左前肢骨折)したため発走除外となりそのまま引退した。
[編集] 年度別競走成績
1972年(5戦2勝)
1973年(9戦2勝)
1974年(12戦2勝)
- 3着 - 京王杯スプリングハンデキャップ
1975年(13戦3勝)
- 1着 - 日本経済賞、毎日王冠、日本最長距離ステークス(1000万下)
- 5着 - 新潟記念
1976年(11戦2勝)
- 1着 - アメリカジョッキークラブカップ、日本経済賞
- 3着 - ダイヤモンドステークス
- 4着 - アルゼンチン共和国杯
- 5着 - 目黒記念(春)
[編集] 引退後
競走馬を引退したホワイトフォンテンは、骨折の為に1年遅れたものの種牡馬生活を開始した。実績の割には種付け人気は低くなく、種牡馬引退前年(1988年)迄毎年20~40頭に種付けを行っていた。こうして、種牡馬引退後も幸せな生活を送っていたが寄る年波には勝てず、1996年新冠町の隆栄牧場で老衰により27年の生涯を閉じた。