ボボ・ブラジル
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ボボ・ブラジル(Bobo Brazil)のリングネームでの活躍で最も知られるヒューストン・ハリス(Houston Harris、1924年7月10日 - 1998年1月20日)は、アメリカのプロレスラー。ミシガン州ベントンハーバー出身。身長195cm、体重127kg。「黒い魔神」と呼ばれた。ちなみにリングネームの「ブラジル」は「人種差別の無いブラジルに行きたい」という子供の頃の夢から。
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[編集] 経歴
プロ野球(黒人リーグ)選手を経て(事実ではないという説もある)、1951年プロレスデビュー。
1957年8月に日本プロレスに参戦するため初来日。「ココバット」と呼ばれる必殺技で力道山を苦しめた。1966年にバディ・キラー・オースチンを破りWWA世界王座を獲得。1968年6月に防衛記録を積み重ねていたジャイアント馬場を破りインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。直後に行われた再戦で、馬場の必殺技「32文ロケット砲」三連発に沈みタイトルを奪回された。
1972年12月に空位となっていたインター王座を「頭突き世界一決定戦」と呼ばれた大木金太郎戦で勝利し、再び獲得した。しかし、また直後に行われた再戦で大木に敗れている。
1973年2月に全日本プロレスに参戦し、以降同団体の常連となるが、すでにロートルの感は否めずジャイアント馬場やジャンボ鶴田の引き立て役に廻った。
アメリカではNWA、WWWF(後のWWE)を中心に活躍した。デトロイト地区でのザ・シークとの抗争は約30年に及んだ。後にWWWFでの功績が認められ1994年にWWF殿堂(現WWE殿堂)入り。1998年1月に脳梗塞により死去。
[編集] プロレス界でのボボ・ブラジル
黎明期のプロレス界においてボボ・ブラジルは代表的な黒人レスラーであり、その地位の向上に貢献した。アメリカでは「プロレス界のジャッキー・ロビンソン」と評される事もある。人種差別が色濃い時代に、好奇な目線の中で日米のリングで圧倒的な強さを見せ付けた。全盛期のボボ・ブラジルは大柄な体型にもかかわらず動きにキレがあり、長身から繰り出される必殺技「ココバット」は単純な技ながら破壊力は抜群で、大木金太郎との「頭突き世界一決定戦」では石頭で知られる大木でさえ何度もよろめいた。
当初は、「Boo-Boo Brazil:ブーブー・ブラジル」というリングネームだったが、プロモーターのミスで「BoBo Brazil:ボボ・ブラジル」と印刷してしまい、それ以来ボボ・ブラジルをリングネームにしてしまった。
全日本プロレスに参戦していたレスラー晩年期は、リング上で手渡された花束にムシャムシャかぶり付くパフォーマンスで異様な雰囲気を演出しようとしていた(本人によると、正統派としてデビューした弟を表に出すためわざと奇行をとったとのこと)が、実力のあるレスラーだけに、落ちぶれた感じをファンに与え評判を落とした。
[編集] タイトル履歴
- WWA世界ヘビー級
- インターナショナル・ヘビー級
[編集] 得意技
- ココバット:ジャンプして上から叩きつけるような形のヘッドバット。彼の必殺技であり、代名詞的な技。長身の彼がジャンプして放つ躍動感のあるヘッドバットは、単なる頭突きと言うより彼しか出来ないオリジナル技といえる。
- パイルドライバー
- ドロップキック:この技1発を当てただけで勝利するという、わずか5秒の秒殺試合をしたことがある。
[編集] 逸話
- 九州では、地方により女性器及び性交のことを「ボボ」というため、テレビ中継で彼が出場する時は、実況音声が消され、アラビア風の音楽が流れていた。また、テロップも単に「ブラジル」と紹介されていた。
- 漫画およびテレビアニメ『タイガーマスク』には「ポポ・アフリカ」という彼をモデルにしたレスラーが登場する。当然黒人で、ココバット(風の頭突き)が得意技である。
- 経歴欄にあるように、ブラジルの最大のライバルはザ・シークといえる。シークは「プロレスの本質を理解しているのは、私とボボ・ブラジルぐらいだろう」と発言し、ライバルを讃えた。
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