ジャッキー・ロビンソン
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ジャッキー・ロビンソン(Jack "Jackie" Roosevelt Robinson 1919年1月31日 - 1972年10月24日)はアメリカ合衆国の元プロ野球選手。黒人初のメジャーリーガーとなり、有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。本名はジャック・ルーズベルト・ロビンソン。右投げ右打ち。二塁手。
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[編集] 生い立ち
ジョージア州出身。カリフォルニア州のパサディナ短期大学(現パサディナ市立大学)と、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でアメリカンフットボールや野球などで活躍し、中退して軍隊に入る。退役後の1945年にニグロ・リーグのカンザスシティ・モナークスに入団。
[編集] メジャー・デビュー
その年の末に、当時のブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われる。当時ドジャースのスカウトであったジョージ・シスラーから「ロビンソンなら批判を乗り越えられるから大丈夫」と推薦を受けたものだった。黒人がメジャーリーグに入ることで受けるであろう反感と差別にロビンソンは躊躇するが、リッキーの熱心な誘いにより、翌年からドジャースの傘下の3A・モントリオール・ロイヤルズに入団、その翌年にはドジャースに昇格した。
1947年4月15日、ロビンソンがメジャーデビューする。予想通り、白人たちからの反発は激しくロビンソンとリッキーの家には連日脅迫の手紙が届き、観客からの野次はすさまじく、チームメイトのなかにはロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した者もいた。
しかしロビンソンは逆境にめげず、常に紳士的に振る舞い、どのような酷いことをされても決して報復をしなかった。この状況の転機は8月末にやってくる。その日の試合で一塁のベースカバーに入ったロビンソンに相手チームの選手がスパイクを立ててスライディングし、ロビンソンに怪我をさせた。このことでチームメイトが相手チームへの怒りで一丸となり、白人のチームメイトたちがロビンソンをかばった。同時にロビンソンの活躍とその態度に世論も徐々に味方するようになっていった。
ロビンソンはこの年に打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残し、チームの優勝にも貢献し、この年より制定された新人王を受賞した。翌年からも活躍を続け、1949年には首位打者と盗塁王を獲得し、MVPに選ばれた。また1949年から6年連続で3割を達成している。
[編集] 引退後
1956年にはジャイアンツへの移籍が持ち上がるが、ロビンソンはドジャースにこだわり、ドジャースにいられないならばと翌年の1月に引退してしまった。その後、1962年には野球殿堂入りを果たす。引退後は実業家として活躍し、また黒人差別撤廃のための政治活動に力を注いだ。また、長男のジャッキー・ロビンソン・ジュニアが麻薬中毒で亡くなったため反麻薬活動にも積極的に参加した。著書に自伝"I Never Had It Made"(邦題・黒人初の大リーガー)がある。1972年10月に心臓病で死去。
[編集] 偉大な足跡
ロビンソンの活躍により、黒人選手の門戸が開かれ、大きくメジャーのレベルを上げることになった(彼のおかげでハンク・アーロンやウィリー・メイズ、サチェル・ペイジがメジャーデビューできた)。また長期的に見れば黄色人種である日本の野茂英雄やイチローを受け入れる下地ともなった。現在のメジャーリーグ(およびすべてのプロスポーツ)ではもはや白人のみの試合などありえない。また野球だけではなく、ロビンソンの活躍が人種差別へ与えた影響も非常に大きい。
1997年4月15日、ロビンソンのメジャーデビュー50年目にあたるこの日、彼の功績を称えて、ロビンソンの背番号「42」が全球団共通の永久欠番となった(ただし、マリアノ・リベラなど、これ以前から背番号42をつけていた選手に関しては特例として背番号42を継続使用することが許可されている)。1999年には、MLBオールセンチュリー・チームの二塁手部門に1位で選ばれている。通算成績では他の候補選手に一歩譲るものの、その存在意義が高く評価された結果である。また2004年4月15日からはこの日が「ジャッキー・ロビンソン・デー」とされて、メジャーリーグの記念日となった。
日本のプロ野球でプレーする外国人選手に(日本人は「死に番」として忌み嫌う)42番をつけている選手が多いのは、メジャーリーグではつけることができない偉大な背番号であるためである。
[編集] 通算成績
- 1382試合出場
- 通算打率 .311
- 本塁打 137
- 打点 734
- 盗塁 197