ポリニャック伯夫人
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ポリニャック伯夫人(Comtesse de Polignac)、本名ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン(Yolande Martine Gabrielle de Polastron, 1749年9月8日 - 1793年12月9日)は、フランス王ルイ16世王妃マリー・アントワネットの寵臣。
1767年にポリニャック伯爵と結婚する。ポリニャック家は、元はブルボン王朝の代からフランス王家に仕え、特にメルシエ枢機卿はルイ14世とルイ15世の代表的な外交官として、重用された。しかし、ルイ14世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人が1678年に起こした黒ミサ事件に関与者を出し、またメルシエ枢機卿も、メーヌ公妃のクーデターに関与して失脚した事から、ポリニャック家の家運は衰退していった。
このためポリニャック伯夫人は、ここぞとばかりにマリー・アントワネットに取り入る事となる。彼女はマリー・アントワネットに大変に気に入られ、以降はマリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノン宮殿に招かれる王妃の数少ないお気に入りの取り巻きの1人となる。ポリニャック伯夫人は夫のポリニャック伯爵共々、国王夫妻の友人として権勢を欲しいままにする。ポリニャック家には年金および下賜金として年間50万リーヴル、後には70万リーヴルもの大金が与えられた。
しかし、フランス革命が起きるとポリニャック伯夫人は国王夫妻を真っ先に見捨てオーストリアに亡命し、ウィーンで急死した。
オノーレ・ミラボーはマリー・アントワネットのポリニャック家への偏愛を苦々しく思い、こんな言葉を皮肉として残している。「ダサス家の家族には国家を救った手柄により1000エキュ、ポリニャック家には国家を滅ぼした手柄によって100万エキュ!!」
夫人の息子ジュール・ド・ポリニャックは王政復古後にフランスに帰国して、シャルル10世の時代にフランスの首相になった。だが、徹底的な反動政策で民衆の恨みを買い、フランス7月革命の一因になったと言われている。