マイヤー・ランスキー
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マイヤー・ランスキー(Meyer Lansky, 1902年7月4日 - 1983年1月15日)はユダヤ系ロシア人のギャング。本名はマイェル・スホヴラニスキ(Majer Suchowlański)。幼い頃からの友人であるラッキー・ルチアーノの右腕として活躍する。ルチアーノ帝国の財政顧問。ルチアーノとは組織犯罪史上重要なパートナーシップを組む(強い絆)。身長は低く160前後だったという。調整役に徹することが多かったため地味な存在に見えるが、長年にわたってマフィアの重鎖として君臨した大物中の大物。
当時ロシア帝国領だったグロドノ(現・ベラルーシ)でポーランド系ユダヤ人の両親の間に生まれる。1911年、家族とともにアメリカに移住してニューヨークに定住した。その後、ラッキー・ルチアーノとは喧嘩してその友人になった。また、1920年、ベンジャミン・シーゲル("Bugsy" Siegel)とも親交を持つ。
アーノルド・ロススタインの弟分で、彼の死後組織を継ぐ。カナダのサム・ブロンフマン・グループとニューヨークを結ぶ仲介人の役割を果たしていた。
同じくユダヤ系の大物ギャング、ルイス・バカルターや弟分のシーゲルと共に「マーダー・インク」(殺人株式会社)と呼ばれる組織を設立。暗黒街のおける暗殺ビジネスを請け負う。
1930年代に毎年8月に競馬が開催されるサラトガ・スプリングスにルチアーノ、フランク・コステロらギャング・ファミリーと行き、そこでカジノ経営のノウハウを覚えた。彼は非常に頭の切れるギャングで、ものの見方が幅広かった。教養もあった。賭博についても独自のプランを持っていた。その後、1936年までにはフロリダ、ニューオリンズ、さらに1930年代後半にはアメリカ当局の手の届かないキューバにもカジノを作った。賭博場開設の許可を取るためキューバの独裁者フルヘンシオ・バティスタに300万ドルさらに毎年300万ドルを支払う取引をした。キューバでのギャンブル事業で成功した。他にも競馬場、私設馬券場、競馬通信社を乗っ取り、掛け率をコントロールして莫大な利益を得た。
友人のシーゲルがフラミンゴ建設の話を持ちかけてきたときに、他のボスたちに資金集めを頼むが断られる。はじめに興味を持ったのは、当時スロット・マシン王と呼ばれていたコステロぐらいだった。
キューバでのバハマ会議のとき議題がベンジャミン・シーゲルのことになったときフラミンゴの再オープンまで待ってやってくれとかばった。友人シーゲルのラスベガス進出失敗を擁護したが、1947年、シーゲルは犯罪組織によって抹殺された。また、第二次世界大戦直後にはイスラエル建国のため、ユダヤ人地下組織に多数の武器を提供した。
ラスベガスでも大きな権力を誇った。ラスベガスではギャング同士が抗争を起こさないように仲裁役になっていた。ラスベガスでは彼の言葉がそのまま法律になったと言う。まわりは彼のことをミスター・ランスキーと敬意を払って呼んでいた。
ヴィト・ジェノヴェーゼが麻薬密輸を積極的に行なっていたとき、コステロと共に麻薬ビジネスには反対していた。麻薬ビジネスをダーティーな仕事と考えていた。
1960年代、麻薬密輸、売春業、恐喝、ホテル・ゴルフコースへの投資によって3億ドルを儲けたと言われる。1970年に脱税容疑を受けてイスラエルに逃亡したが、2年後国外追放されてアメリカに強制送還されたがまもなく釈放され、1976年に病気と老齢を理由に告訴は取り下げられた。
彼の組織犯罪における立場は不明である。一部の本では、彼をアメリカ組織犯罪の実質的なボスとしているが、ヴィンセント・テレサの証言によれば、ランスキーはラスベガス等のギャンブルなどを通じて全米のコーサ・ノストラの組織に大儲けさせているが、ランスキーの立場はあくまでコーサ・ノストラの代理人としてのそれであり、代理人として正直に振舞っている上では役に立つが、そうでなければいつでも消される立場にあるとしている。
ギャングには珍しく数字に強く、経済学の研究書を読み、経済感覚が秀でていた。彼はマネーロンダリングの創始者とも言われている。
1983年1月15日、ランスキーは4億ドル以上の財産を残して肺ガンで死んだ。
彼の生涯は、『モブスターズ』(1991年)、『ランスキー』(1999年)などの映画で取り上げられている。また、『ゴッドファーザー』に登場するユダヤ系ギャング・ハイマン・ロスはランスキーがモデルである。
なお、エルヴィス・プレスリー御用達の洋品店として名高いランスキー・ブラザーズはマイヤー・ランスキーの甥の店である。