マルグリット・ドートリッシュ
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マルガレーテ・フォン・エスターライヒ(1480年1月10日 - 1530年12月1日)は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーの長女。
フランス王シャルル8世の妃、スペイン(カスティーリャとアラゴンの王太子フアンの妃、サヴォイア公フィリベルト2世の妃となった後、ネーデルラント17州の総督を務めた。
[編集] 名前
名前はこの人物の関係する各国語で以下のように呼ばれる。
- フランス語 - マルグリット・ドートリッシュ(Marguerite d'Autriche)
- スペイン語 - マルガリータ・デ・アウストリア(Margarita de Austria)
- イタリア語 - マルゲリータ・ダウストリア(Margherita d'Austria)
- オランダ語 - マルハレータ・ファン・オーステンレイク(Margaretha van Oostenrijk)
- ドイツ語 - マルガレーテ・フォン・エスターライヒ(Margarete von Österreich)
欧州各地、特にフランス語圏で人生を過ごしているが、本文中ではひとまず彼女の本来のルーツに従いドイツ語名による表記とする。
[編集] 生涯
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーの長女として誕生。マリーの継母であるイングランドの王妹マーガレット・オブ・ヨークにちなみマルガレーテ(マルグリット)と名付けられる。両親の仲は円満でブルゴーニュ公国は豊かであり、幸福な少女時代を送るはずであった。しかし、1482年に母マリーが事故死したため、入り婿的な形の父マクシミリアンは貴族からの反乱をうけ権力を失う。
フランドルのメヘレン城で義祖母のもとで養育されるが、有力貴族とフランス王ルイ11世と手を組んだため、シャルル王太子の婚約者として1483年にフランスへ誘拐同然に送られる。以後フランスのアンボワーズ城でシャルル王太子の年の離れた姉アンヌ・ド・ボージューに養育される。1490年、13歳のシャルルは姉アンヌの摂政のもとフランス王シャルル8世として即位。マルガレーテも形式的に王妃となった。
1491年、父マクシミリアンはフランスを挟撃するためブルターニュ公国の継承者アンヌ女公との結婚を画策するが、シャルル8世が先手を打ってマルガレーテとの間の婚姻無効証書をローマ教皇に発行させた上でアンヌ女公と結婚した。その結果マルガレーテはフランス王妃としての地位を失ったが、婚資返還の問題のため足止めを受け、1493年にサンリスの和約によってようやくフランドルへ帰国した。
1495年、兄フィリップとスペイン王女フアナ、マルガレーテと王太子フアンの二重結婚が決まった。1497年3月4日、スペインのカンタンテル港に着き、4月3日にブルゴスの聖堂で結婚式が執り行われた。フェルナンド2世、イサベル女王を始めスペイン国民は、健康でしっかりした王太子妃ができたことを大変喜んだ。夫婦仲はとても良かったが、フアンは結婚後わずか半年で病死した。彼女は第1子を懐妊中に未亡人となってしまう。さらにその後男児を死産した。父マクシミリアンはフランス王家の陰謀だと疑ったという。その後イサベル女王の厚意もあり3年あまりスペインにとどまった。
1501年12月2日、サヴォイア公フィリベルト2世と再婚。イサベル譲りの政治的手腕を発揮し、サヴォイアの国政を改革し公国を苦境から救った。今度の結婚でも夫婦仲は優れて円満だったというが、1504年にフィリベルトは狩猟大会の折に生水にあたり死亡する。
1507年、ネーデルラント総督に任命された。兄フィリップの遺児(カール、レオノール、イサベル、マリア)の養育に心を砕く。特に1512年のカンブレー条約、1513年の神聖同盟の立役者となる。1515年に解任されたが、カールがカルロス1世として即位すると、ふたたび彼女は総督に任命された。
父マクシミリアンの死後、次代の神聖ローマ皇帝選出はカールとフランス王フランソワ1世の一騎打ちになり、マルガレーテは甥の皇帝即位のため尽力。その甲斐あって1519年6月28日、選帝侯全員の一致をもって、カールは皇帝に選出された。カールはマルガレーテに感謝するとともに、大変尊敬するようになったという。その後も総督として1529年8月29日に「貴婦人によるカンブレーの和約」締結に大いに貢献した。
1530年12月1日、マルガレーテは死去。その後、彼女はフィリベルトと同じブール・カン・ブレスの霊廟に埋葬された。