ネーデルラント17州
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低地諸国の歴史 |
リエージュ司教(君主)領(約720年~1794年) |
ネーデルラント17州(オランダ語:Zeventien Provinciën、フランス語:Dix-sept Provinces)とは、低地諸国に16世紀に存在した同君連合であり、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、そしてフランス北部のアルトワ(Artois)、ノール(Nord)とドイツの一部を含む地域を含んだ領域に存在した。
目次 |
[編集] 17州の一覧
図1に示す17州には、以下の諸侯領が存在した。
- アルトワ伯領(the county of Artois)
- フランドル伯領(the county of Flanders) (リール、ドゥエ、オーキー等の都市を含む)
- メッヘレン(the lordship of Mechelen)
- ナミュール伯領(the county of Namur)
- エノー伯領(the county of Hainaut)
- ゼーラント伯領(the county of Zeeland)
- ホラント伯領(the county of Holland)
- ブラバント公国(the duchy of Brabant) (アントウェルペンを含む)
- リンブルフ公国(the duchy of Limburg)
- ルクセンブルク公国(the duchy of Luxemburg)
- ユトレヒト(the lordship of Utrecht)
- フリースラント(the lordship of Friesland)
- ゲルデルン公国(the duchy of Guelders) (1543年以降)
- フローニンゲン(the lordship of Groningen)
- ドレンテ伯領(the county of Drenthe) (リンゲンを含む)
- オーファーアイセル(the lordship of Overijssel)
- ズトフェン伯領(the county of Zutphen)
トゥルネーの町のある場所であるリールとモンスの間の青いエリアは17州の1つであると考えられていた。一方、リエージュ司教領はこれらの州の一員と考えられていなかった。この17州は、ネーデルラント全国三部会に代表者を送っていた州と常に同じ17州ではなかった。時には1つの代表が他の代表とまとめられたこともあった。通常、ズトフェンはゲルゲルンの一部であったし、リンブルフはブラバントを頼っていた。一方、フランドルのフランス語を話す都市は、別々の州と認められることもあった。
更にネーデルラントには、17州に含まれない領土が存在した。その最大のものはリエージュ司教領だった。北にはフランス革命まで自らの支配者を持ち続けたアメラント島(Island of Ameland)のような、いくつかの小さな領域も存在した。
[編集] 歴史
ネーデルラント17州の歴史は、ブルゴーニュ公国を治めていたシャルル突進公が戦死した後、男子の継承者がいなかったため娘のマリー女公を経て、1482年にハプスブルク家のマクシミリアンによって継承されたのが始まりである。マリーが落馬によって死亡した後、公国内の有力貴族が反乱を起こし、マクシミリアンはブルゴーニュ公の退位を余儀なくされる。その後、この地域は息子のフィリップ美公、孫のカール5世が治め、カールの時代に17州全てを統合した。その最後が1543年のゲルデルン州であった。これらの州の大部分は神聖ローマ帝国の下に置かれ、カール自身はマクシミリアンの後継皇帝となった。2州(フランドルとアルトワ)はフランスの領土であったが、1529年のカンブレー講和条約によりハプスブルク家に譲渡された。1549年の国本勅定では、これらの州は将来も統一された状態でないといけないと記された。
1556年のカール5世の退位の後、領土は息子フェリペ2世と弟フェルディナント1世に分けられた。そしてネーデルラントはスペイン王位とともに息子フェリペに相続された。
フェリペ2世とネーデルラント人との争いは1568年に始まる八十年戦争となった。北部7州(フローニンゲン、フリースランド、オーファーアイセル、ゲルデルン(上部4分の1以外)、ユトレヒト、ホラント、ゼーラント)はネーデルラント連邦共和国として独立を得た。
南部のフランドル、ブラバント、ナミュール、エノー、ルクセンブルクなどの州は、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの軍事・政治的な力によりスペインの支配化に戻された。特に有名なのが、アントウェルペン包囲(1584年~1585年)である。そのため、これらの州は「スペイン領ネーデルラント」もしくは「南部ネーデルラント」として知られていた。北部の連合州は八十年戦争の間、ランブール、ブラバント、フランドルの各地域を保持し続けた(Generality Lands参照)。
この戦争は1648年のヴェストファーレン条約で終結した。アルトワとフランドルの一部とエノーは、17世紀から18世紀の間にフランスに譲渡された。
[編集] 経済
16世紀中頃までに首都はメッヘレンからブリュッセルに移動し、ブラバントのアントウェルペンはネーデルラントにおける経済的、政治的、文化的中心となった。その頃、フランドルのブリュッヘは北ヨーロッパの経済中心地としての突出した位置を既に失っており、ホラント州が15~16世紀において徐々にその重要性を増加ささせていった。
しかし、八十年戦争で北部7州(ネーデルラント連邦共和国)が独立したことにより、それまで利用していたスヘルデ川が共和国領内を通過するために利用できなくなり、多くの人々が南部の州から北部の州へ移住していった。繁栄の中心地は南部のブリュッヘ、アントウェルペン、ヘント、ブリュッセルから、北部のホラント州にあるアムステルダムやハーグ、ロッテルダムへ移動していった。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ネーデルラント17州の地図(Map of the Seventeen Provinces (1555))
- contemporary map Leo Belgicus