マルコポーロ (雑誌)
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マルコポーロは文藝春秋社が発行していた男性向けビジュアル月刊誌(1991年 - 1995年)。
湾岸戦争が起きた1991年、国際政治の動向がマスメディア上を賑わす時代背景を受け、国際派ジャーナリズム雑誌として創刊された。創刊時はフランスの雑誌「パリ・マッチ」 (Paris Match) 誌との提携が売り文句であった。
しかし、マルコポーロは創刊時から販売部数の低迷に苦しむ。
原因は、文春が見込んだ国際派ジャーナリズム路線が、市場において需要が薄かったという予測の甘さである。部数低迷によって広告収入が伸び悩んだ上、ビジュアル誌は経費がかかるという事情も追い打ちとなり、早くも大幅なてこ入れが図られた。なお、早期休刊に至らなかったのは社長の田中健五の肝煎りで創刊された事情がある。
第1次のてこ入れは、CREA編集長であった斉藤禎を迎えてのサブカルチャー路線である。マンガ特集や女子高生特集などのカルチャー路線は創刊以来の硬派路線を完全に放棄した物であり、とても同じ雑誌と呼べるものではなかった。 極端な路線転換のために読者が定着することもなく、また企画のインパクトの弱さから、結局は部数低迷に悩み、創刊してから4年目で早くも2度目の大幅リニューアルがなされた。
立て直し役に抜擢されたのが、週刊文春で辣腕をふるっていた花田紀凱編集長である。花田は週刊文春の執筆陣を数多く揃え、花田流の歯に衣着せぬジャーナリズム路線を再現した。しかし、これが思わぬ綻びの始まりともなる。
1995年2月号の誌上において、『ナチ「ガス室」はなかった』という「ホロコーストは捏造」という特集を組み、世界から非難を浴びることになる。いわゆるマルコポーロ事件である。
海外に同特集の内容が報道された結果、世界的に発言力を持つアメリカのユダヤ人団体サイモン・ヴィーゼンタールセンターからの強い抗議、さらに広告主の広告引き上げの動きを受け、文藝春秋は同誌の廃刊と2月号の回収、社長・田中健五の辞任と花田の解任を決定する。 マルコポーロはスター編集長を迎えながらも、ここに終焉を迎えた。
同様の系統の雑誌にDAYS JAPAN、VIEWS(講談社)、BART(集英社)パンジャ(扶桑社)などが、ほぼ同じ時期に相次いで創刊されているが、いずれも短期間で休刊で追い込まれている(現「DAYS―」は、2004年に株式会社デイズジャパンより新しく創刊されたもの。)。
このジャンルの雑誌が短命に終わった理由として、マーケティングの稚拙、作り手と世間の時代感覚のギャップ、高コストなどがあげられる。バブル崩壊前のあだ花とも言える存在であった。