メルボルン子爵ウィリアム・ラム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第2代メルボルン子爵ウィリアム・ラム (William Lamb,Viscount of Melbourne,1779年3月15日 - 1848年11月24日)は、イギリスのホイッグ党の政治家。内相(1830年-1834年)と首相(1834年、1835年-1841年)をつとめた。
ロンドンで初代メルボルン子爵の二男として生まれる。イートン校・ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学び、パーシー・ビッシュ・シェリーやバイロンと親交を深めた。1805年に、兄の死からラム家の跡取りとなり、同年にキャロライン・ポンソンビー(第3代ベスバラ伯の娘)と結婚した。1806年、議員に当選した。
彼の名前が一般に知れ渡ったのは、1812年の、妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインはバイロン卿との不倫に走ったのである。結果として、二人は1825年に離婚した。
彼はホイッグに属しながら、1827年、穏健派トーリーのジョージ・カニング内閣でアイルランド相を引き受け、1828年より父の跡を継いで2代目メルボルン子爵となった。1830年のグレイ内閣で内相になり、その最初の仕事は、産業革命でより貧しくなった農民が引き起こした暴動を厳しく鎮圧することだった。絞首刑、流刑、禁固刑の宣告が主だった。
妥協は彼の行動の多くの鍵を握った。彼はトーリーによる急進的な法案に対抗したというより、党が1832年に改革案を通過させまいとするのを妨害したのだった。このことは不成功に終わったが、グレイ内閣が1834年7月に総辞職すると、ホイッグにおける最もふさわしい次期指導者とみなされ、首相に就任した。
ウィリアム4世のホイッグ嫌いにより、11月にメルボルン内閣は辞職させられ、ロバート・ピールのトーリー内閣に取って代わられた。ピールの失政がきっかけとなって選挙が行われ、1835年4月再び首相に返り咲いた。
1836年、メルボルンはまたしても醜聞に巻き込まれた。彼は、親しく交際していた社交界の花形で作家のキャロライン・ノートンの夫からゆすられたのだ。ノートンは、メルボルンが妻と関係したと告発して、慰謝料1400ポンドを要求した。これで彼の政治生命は終わったと多くが思ったが、メルボルンの高潔さが同時代の人々に評価されていたため、内閣は続行した。ノートンも望む結果が手に入れられず、スキャンダルは失速した。
1837年の、ヴィクトリア女王即位時の首相はメルボルンだった。成人を迎えて、母ケント公妃や母のアドバイザー、ジョン・コンロイの影響下から脱したばかりであった。即位から4年間、彼は女王の政治の教師として、信頼関係を築いた。女王は彼に、わずか生後八ヶ月で死別した父ケント公の面影を見いだしていたし、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルボルンはウィンザー城に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。
1839年5月、政争のためメルボルンは首相を辞任したが、後任のピールが女王の女官や使用人を更迭するよう要求したところ、女王に拒否される騒ぎとなった。女王の周りがホイッグ支持者で固められていたためである。女王はピール内閣を許可しなかったため、メルボルンの続投が決まった。
1841年8月、彼は再び首相職を辞したが、女王が再び続投を要請した。おそらくは前回と同じ理由からの留保であろうが、この頃に彼の影響力は低下していたし、女王の相談相手もアルバート殿下に替わっていた。
[編集] 関連項目
- メルボルン(オーストラリア)
|
|
|
カテゴリ: 人物関連のスタブ項目 | イギリスの政治家 | 1779年生 | 1848年没