モレネ
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モレネ (Moresnet) あるいは中立モレネ (Neutral Moresnet) は1816年から1919年にかけて存続した、面積3.5 km²のヨーロッパの小国家である。モレネが存続したのは、隣接する二つの大国、ドイツとベルギーが、互いに他方の主張する領有権を認めなかったことによる。したがってこの地帯は両国が等しく支配権をもつ中立地帯とされた。モレネはアーヘンの7 km 南西に位置し、ドイツ、ベルギー、オランダの国境が交わるファールゼルベルク (Vaalserberg) の丘の地にあった。
[編集] 建国
1815年のウィーン会議の間、ヨーロッパの地図は列強の新しい政治的なバランスを反映するために重大な書き直しを受けた。その際に確定された国境の一つが、オランダ王国・プロイセン間で、大体においてそれまでの国境を踏襲したが、モレネをめぐって問題が巻き起こった。モレネとニュー・モレネの村の間に(仏)Vieille Montagne、または(独)Alternberg(ともに「古い山」の意)という貴重な亜鉛鉱山があったためである。両国はこの鉱山の帰属をめぐって激しく対立し1816年に、モレネ村をオランダに、ニューモレネ村はプロイセンに帰属させ、鉱山とケルミスの丘(ラ・カルマイン)は当面両国の共同統治地帯とすることで合意に達した。
この新しい領土は、北の鉱山を頂点とし、アーヘン・リエージュ間の道を底辺とする三角の形であった。北へ向かう二直線はファールゼルベルクで交わる。1830年、ベルギーがオランダより独立したとき、この地の西側のオランダ領はベルギー領となり、共同統治者の地位も引き継がれたが、オランダは正式にモレネの統治権を譲らなかった。領土はそれぞれの王国から来た行政官が統治していたが、後に、大幅な自治権が認められ、行政官によって認められた首長かつ元首によって構成される定数10人の協議会が設置された。
中立モレネの生活は主要な雇用先である亜鉛鉱山によって決定されていた。亜鉛鉱山には近隣の国から多くの労働者が働きに来ており、本来の「中立地帯の」住民を圧迫していたが、中立モレネの人口は決して3000人を超えることはなかった。ここが中立地帯であることには利益があった。税が低いため、直接国境をまたぐよりはモレネを経由して輸入したほうが関税が低かったのである。郵便など、ほとんどの公共サービスは、アンドラでそうされたように、ベルギーとプロイセンが共同で行った。中立地帯のもともとの住民は軍務と裁判所の管轄について、任意の国を選ぶことができた。しかし、この状態は、モレネの住民が国を持たないとみなされ、そのために自身の軍隊を持つことを認められていないことを示した。
[編集] 終焉
1885年に廃鉱になった際、モレネを引き続き存続させるかについて議論が沸き起こった。当時の案の中には、モレネに独立した権利を与え、カジノや自前の切手を持つ郵便事業を行わせる、というものがあったが、モレネ政府によって拒否された。ウィルヘルム・モリー教授から提案された案では、モレネを世界初のエスペラントを公用語とした国とし、Amikejo(友情の地)と国名を変えよとあった。しかし、プロイセンもベルギーもこの土地に対する領有権の主張を取り下げず、妨害行為の告発や行政の妨害をして問題の強制的解決を図った。1914年、第一次世界大戦が起こり、ドイツはベルギーを侵略、モレネを1915年に併合した。
戦後1919年のヴェルサイユ条約によってモレネはベルギーに帰属することが決定され、100年にわたる「一時的な中立地帯」の問題は解消された。ドイツは第二次世界大戦中に短期間この地域を再併合したが、1944年にはこの地帯は再びベルギー領となった。この土地はベルギーのドイツ語地域内のKelmis、或はLa Calamine自治体として存続している。