ヨハネス8世パレオロゴス
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ヨハネス8世パレオロゴス (JohannesVIII. Palaiologos ギリシャ語表記:Ιωάννης Η' Παλαιολόγος 1392年 - 1448年10月31日) は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1425年 - 1448年)。マヌエル2世パレオロゴス(1350年-1425年、在位1391年-1425年)の子。中世ギリシャ語読みでは「ヨアニス8世パレオロゴス」。
ヨハネスは決して無能ではなかったものの、勝気で大胆なところがあり、滅亡寸前の帝国を苦労しながら何とか切り盛りしてきた父マヌエル2世は、ヨハネスの行動が帝国を滅亡させるのではないかと心配していたという。
東ローマ帝国に好意的であったオスマン朝のスルタンメフメト1世が逝去(1421年)した後、ヨハネスは対オスマン強硬策を主張した。父マヌエル2世はこれを止めようとしたが、ヨハネスの意見が支持を集めたため、共同皇帝となったヨハネスに実権を譲り、修道誓願を行って引退した。
しかし、ヨハネスが実権を握ると、早速その大胆さが裏目に出た。ヨハネスがオスマン帝国のスルタン位継承に介入したため、1422年、これに怒ったオスマン朝のムラト2世の軍勢がコンスタンティノポリスを包囲したのである。このとき、引退したマヌエル2世が再登場。再度オスマン帝国の属国となることを条件に屈辱的な和睦を結ぶことによって、かろうじて滅亡を免れた。その3年後の1425年、マヌエル2世は崩御した。もうマヌエルは息子と帝国の行く末を諦めていたのか、その死に際して「これからはお前の好きなようにしなさい」と遺したという。
父の死によって正式に帝位に就いたヨハネスは、オスマンに対抗するため、西ヨーロッパ諸国の支援を受けようと、東西教会の融合を考えた。1438年-1439年のフェラーラ・フィレンツェ公会議に、東方正教会の聖職者らとともに自ら参加した。その甲斐あって公会議では東西教会の合同が決議された。しかし、政治・軍事的な目的からのものであったため、聖職者や国民の反発は強く、合同が実現することはなかった。
あてにしていた西ヨーロッパの支援も思うようにいかなかった。1444年、ローマ教皇エウゲニウス4世の命令により、ブルガリアでハンガリー軍とオスマン帝国軍が戦うがキリスト教側が敗北(ヴァルナ十字軍)、1448年、コソボでセルビアなどの軍がオスマン帝国軍と戦い敗北(コソボの戦い)、とオスマン帝国の勢いは強まっていった。
ヨハネスは1448年に逝去し、弟のコンスタンティノスが帝位を継いだ。東ローマ帝国の滅亡は、わずか5年後の1453年のことである。
[編集] ヨハネス8世の肖像
フィレンツェの名門メディチ家の邸内礼拝堂の壁画『東方三博士の旅』(ベノッツォ・ゴッツォリ作)に描かれている三博士の一人は、フェラーラ・フィレンツェ公会議でフィレンツェを訪れたヨハネス8世がモデルとされている(ただし、これには異論もある)。フィレンツェに公会議を誘致したのは、コジモ・デ・メディチであった。
東ローマ帝国パレオロゴス王朝 | ||
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