ラダック
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ラダック(Ladakh)はインドのジャンム・カシミール州最大の地方の呼称。行政区画の名称としては使用されていない。ラダックは同州の東側半分以上を占めている。パキスタン、中華人民共和国との国境に接し、アフガニスタン北部にも近い。
チベット文化圏に属するラダックは、よく小チベットと称され、素晴らしい山岳風景を背景としたチベット仏教の中心地の一つとして有名である。 文化大革命で破壊されてしまった中華人民共和国のチベット自治区よりも古い文化が良く残っていると言われる。 特に曼荼羅美術の集積はチベットを凌ぐとされる。 中心都市はレー(Leh)。
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[編集] 歴史
ラダックはかつて独立した仏教王国であった。17世紀、ダライ・ラマ5世による侵略計画によりチベットとの関係が崩れる。 チベットとの関係崩壊によりカシミール王国がラダックとの関係改善に乗り出し、ラダックを併合する。その後英領インドの一部になる。 現在では、ラダック王国の国土はインド、中華人民共和国、パキスタンに分割されている。
[編集] 地理
ラダックは、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間のインダス河源流域に位置し、インドでもっとも高い高山地帯の一つとなっている。 歴史的に見ると、ラダックはいくつかの地域に分けられる。人口がもっとも多いのはインダス河流域である。 南にはさらに辺境のザンスカール地方が広がる。北側にはラダック山地が広がり、そこにあるカールドング峠を越えるとヌブラ谷と言う地域が広がっている。 この峠は標高5602mあり自動車道世界最高地点である。 さらに北方のアクサイチン地方は中国に実効支配されている。 西にはスル谷が延び、イスラム教徒が多数派でラダックで2番目に重要な都市であるカルギリがある。パキスタンに実効支配されているスカル地方は完全にイスラム勢力の下にあるが、広義ではこの地域もラダックに含まれる。
[編集] 宗教
- ラダック地方の寺院で録音された読経の声 (説明ページ) — ブラウザで視聴 (beta)
- チベット仏教の読経。ヘミスゴンパ。5MB
- うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒントをご覧ください。
ラダック以外のジャンム・カシミール州はイスラム教が支配的だが、ラダックでは仏教が根強く信仰されている。 現在その宗派はこの地方の土着宗教であるタントラ教の影響を受けた密教で、いわゆるチベット仏教である。 ラダックには多数の仏教寺院、ゴンパがある。 ゴンパは地元の言葉で修道院という意味である。 有名なゴンパとしてはシェイ、ティクセ、ヘミス、アルチ、ストングデイ、ラマユルなどがある。 ダライラマの属する宗派であるゲルク派のティクセゴンパは巨大で、近年その発展がめざましいものがあるが、代々の王族が菩提寺としたカギュー派のへミスゴンパが一番の信仰を集めている。毎年7月頃にここで行われるチュチュ祭は観光客にも有名である。
ゴンパでは極彩色の曼荼羅を数多く見ることが出来る。 またタントラ教の影響と思われる、歓喜仏や憤怒仏の仏像を見ることが出来る。 保存状態は概して良いとは言えないが、破壊を受けてはおらず、古い時代のマンダラも残存するなど手厚く信仰されている。 これらの仏教美術は芸術的な価値もまた非常に高いものがある。 近年、経年劣化による破損がひどいが、修復された壁画は描写がいいかげんで劣り、正確な保存、修復のための援助が期待される。 仏教の信仰の厚さはゴンパの数の多さからも良くわかる。 通常ゴンパには5,6才から出家し、僧となるための修行を行う。 ゴンパの中には畑や小さな牧場が備わっている所もある。 僧の地位は高く、食べることには困らないが、出身の家の裕福さによって、ゴンパ内での地位も影響を受けるというのが実情である。出家した僧の住居はゴンパの近くに出身の家が負担して用意する事が多い。 ゴンパには僧の他に用務員のような人もおり、僧の身の回りの世話をしている。 僧の妻帯は認められておらず、農業生産性の低いこの地方の人口抑制手段であったとも言われる。 中には、成人してからや老人になってから自分から求めて出家する人もいるし、成人してから還俗して結婚するものもある。 ラダックにもトゥルク制度が息づいている。 ほとんどの場合、ゴンパ自体は特に女人禁制ではない。 インド政府は、伝統文化の保存を目指すため、ゴンパにおける少年への仏教教育を認めているが、同時に英語や科学、数学などの教育も施すために、ゴンパ内には学校が設けられ、僧籍意外の教員も教えている。
チベットでは「鳥葬」が有名だが、ラダックでは「火葬」が一般的である。 ゴンパの近くや村の郊外に設置される日干し煉瓦で出来た「プルカン」と呼ばれる四角い窯で死体が焼かれる。 日本語を解するラダッキは、しばしばプルカンのことを「墓」と訳して教えてくれるが、日本人が言う墓とは異なり、火葬場と呼ぶのがふさわしい。裕福な家系は一族だけのプルカンを持っているようだ。 プルカンで焼いた後の遺灰は集められて、高い峠で風に乗せてまかれるか、あるいは大きな川(インダス川など)へと流される。 プルカン自体は墓ではないものの、葬式の1年後など決まった時期に僧を招いて法要を行う場合もある。 チベタンと同様にラダッキも魚を食べず、ラダッキからはよく「一つの命を維持するためにより多くの命を奪うことになるから」であると説明を受けるが、遺灰を水に流すことによる宗教的な不浄観も理由に含まれているように感じられる。 また、ラダックにはゴンパの他チベットに比べてチョルテンが非常に多く、チベットとの宗教観の違いが感じられる。
古い王都シェイや王都レーよりも西部には、石仏や磨崖仏、仏教の線刻画も見られるが、これらは現在のラダッキ達が残したものではない。 チベット仏教が隆盛を誇る以前のアフガニスタンやカシミールの影響を受けた古い時代の仏教遺物である。シェーの王宮は大きな岩山の上に建てられ、岩にもカラフルな真言が刻まれているがこれらはチベット仏教の時代のものである。ただし、一番下にある線刻の仏画はより古い時代のものでチベット仏教とは無関係だ。
ラダック人の話すラダック語はチベット語の方言であり、古いチベット語の用法をよく残していると言われる。 チベット語で「こんにちは」を意味する「タシ・デレ(ク)」よりも「ジュレー(もしくはジュライ)」が広く使われ、見知らぬ人でも、すぐに「ジュレー」と言葉を返してくれる。 ラダックでも「タシ・デレ(ク)」は使われるが、よりフォーマルな挨拶語とされ目上の人や尊敬する僧に対して使われるといった違いが見られる。 カルギリで使われているバルティ語はラダック語とよく似ており、より古いチベット語の用法が残されていると言われる。 ラダックには、レーよりも西部を中心にかなりの数のイスラム教徒も住んでおり、そのほとんどはバルティ派である。レーやチョグラムサルにもムスリム寺院がある。
[編集] 経済
カシミール問題のためジャンム・カシミール州は旅行者立ち入り禁止となっている。 しかし、インド政府はラダック地方に限り旅行を解放している。 カシミール紛争対策のため、ジャンム・カシミール州にはインド政府からの補助金が大量に投入されている。 しかしラダックでは、ジャンム・カシミール州の予算が、充分配分されない事に不満を持ち、ラダック地方で独自の政策が行えるように運動を行ってきた。一時期には分離独立運動として危険視されたこともあったようだが、これらの運動は政府に認められて、現在はラダック自治山間開発会議という限定的な政府機関と議会が設立されて、独自の予算が配分されるようになった。現在独自の教科書選定など限定的な自治が認められている。ラダックは仏教徒が多く過激な分離独立運動は見られないが、カシミールに隣接している関係上、これは多分に懐柔政策の意味合いが含まれる。
1970年代に入って、外国人の入域が開放されてからは、観光産業が、それまで農業による収入しかなかったラダックにとって重要な現金収入源となっている。特にヨーロッパからの観光客が多く、トレッキングは非常に人気が高い。中国とのアクサイチンの国境紛争は一段落しているものの、近年外国への進出がめざましい中国本土(中華人民共和国)の観光客は見られない。見られるのはわずかに台湾からの観光客である。 現在でもアクサイチンに近い一部の地域などではILPの取得が必要であり、東部を中心に開放されていない地域も存在する。
なお、農業は基本的に自給的で、例外的に、チャンタンを中心としたラダック東部の高原地方で生産されるパシミナ山羊の毛織物が特産品として有名である。レーでは、観光客は「ほんもののパシミナですよ」という物売りからたくさん声を掛けられることになるだろう。近年では、インド国内でも健康食品として需要が高まっている、ラダックに以前から自生するグミ科のシーベリー(シーバックソーン、サジ)の生産に力が入れられている。レーから西部を中心に「チュリ」と呼ばれる小型の杏の生産も盛んで、生果や乾果、殻の内部のアーモンドなどが、レーの路上バザールで売られている。
[編集] 交通
主な陸路はカシミールのシュリナガルからカルギリを通り、ゾジ峠を越えるルートである。 もう一つは高地を通るルートでヒマチャルプラデシュからマナリ-レーハイウェイに続く。 後者の道路は雪のため7月から9月までしか通れない。最近は暖冬で5月初旬くらいから開くらしい。 カシミール紛争が、インド政府にこの陸路を開かせる気を起こさせたのは確実であり、多分に軍事的性格が強い。 軍事的な目的のために、意外に除雪(軍が行う)は行き届いているようだ。 レーには空港が一つあり、インディアン・エアラインズとエア・インディアがデリー間とシュリナガル間に就航している。
[編集] 市民運動
ラダックは、近年、グローバル経済の進展に対抗するカウンターデヴェロプメントの実践を目指す人達から注目されている。 スウェーデン出身の言語学者ヘレナ・ノバーク・ホッジは、ラダックが外国人に開放された1974年にドキュメンタリー映画の撮影メンバーとして入域してから、一貫してこの地の伝統的な文化や自然、経済活動を守り、維持する活動を30年間にわたって続けてきた。 その間ヘレナ氏が設立したNPOは数多く、それらの団体は現在ではラダッキ自身が活動を行っている。 ヘレナ氏自身は、イギリスに本部を置く環境保護NPO、ISEC(The International Society for Ecology and Culture) のメンバーで、現在もラダックで活動を続けている。 ヘレナ氏の著書「懐かしい未来」は日本語を含んで数十ヶ国語に訳され、環境や持続的社会に関心を持つ多くの読者に支持されている。 ヘレナ氏は2006年5月に日本に招聘され、4日間にわたって首都圏で講演活動を行った。 また、ラダッキ自らが設立したSECMOL(Students' Educational and Cultural Movement of Ladakh)は、特にラダック人としてのアイデンティティーをしっかりもち、ラダックの未来を担う人材教育に力を入れているNPOで、ラダック自治山間開発会議の制定するラダック語の教科書編纂なども行っている。 日本国内でラダックを支援するNPOに、ジュレーラダックがあり、2004年から現地NPOとの交流、支援を行っている。
[編集] 外部リンク
- ラダックの写真(英語)
- 462枚のラダックの写真(英語)
- ラダック 純粋な大地(英語)
- シルクロード・シャトル(英語) シルクロードに関する情報
[編集] その他
- Pictures, Ladakh bike-tour
- en:Ladakh Ladakh最新版から翻訳、修正、加筆