ラナルド・マクドナルド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald,1824年2月3日 - 1894年8月5日)は、アメリカ人。日本初のネイティブスピーカーの英語教師。
[編集] 経歴
スコットランド系の父親と、アメリカインディアン系の母親の間に生まれる。インディアンのルーツは日本人だと信じ、日本にあこがれ、1848年、捕鯨船員となり、船が日本近海に来た6月27日(グレゴリオ暦)、単身でボートで日本に上陸を試みた。他の船員らは、日本は鎖国をしており、密入国は死刑になると説得したが、マクドナルドは応じなかった。船長は、マクドナルドが後に不名誉な扱いをされないよう、下船用ボートを譲り、正規の下船証明も与えた。最初、焼尻島に上陸、二夜を明かしたが、無人島だと思いこみ、再度船をこいで7月1日(グレゴリオ暦)、利尻島に上陸。マクドナルド自身の記述によれば、不法入国では処刑されるが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装ったという。ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らした後、島の別の場所で日本人に20日間拘留されたが、扱いは悪くなかったという。この後、8月に密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られた。そこから長崎に送られ、崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話を教えた。
翌年4月26日(グレゴリオ暦)、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き渡され、そのままアメリカに戻った。日本での日本人のマクドナルドの扱いは終始丁寧なもので、マクドナルドも死ぬまで日本には好意的だった。出航間際の最期の言葉は、「さようなら my dear さようなら」と日本語であったという。「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれた。
[編集] その他
[編集] 著書
- 『日本回想記』