レオポルド2世 (ベルギー王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レオポルド2世(Leopold II, 1835年4月9日 - 1909年12月17日)は、ベルギー王国(ザクセン=コーブルク=ゴータ王朝)の第2代国王(在位:1865年 - 1909年)。初代国王レオポルド1世の子。王妃はオーストリア大公女マリー・ヘンリエッテ。娘のステファニーは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇太子ルドルフの妃になった。
即位前の1855年から上院議員として政治を実際に学び、1865年に父レオポルド1世の後を継いで国王となる。
1876年、「アフリカ探検・文明化国際協会」を組織する。そしてこれを作ったことを契機として1878年、ヘンリー・スタンリーを支援してコンゴ川流域に派遣し、彼にコンゴ地方を探検させた。1884年、アフリカ分割を前提としたベルリン会議に出席し、翌1885年に欧州列強の承認のもと、コンゴ自由国を建設した。こうしてコンゴを事実上の植民地として支配下(ただしこのときは、国王の個人的支配)に置き、鉱山開発や国内統治を行なったが、原住民に過酷な重税を課し、完納できなければ手を切り落とすなど「自由国」という名とあまりにかけ離れた暴虐的な政治を行なったことで、列強から国際的な批判を受けた。そのため1908年、国名をベルギー領コンゴと改め、同国をベルギー議会の管理下に置くことにして何とか非難をかわした。レオポルドはコンゴの民衆に対してひどい扱いをしたことでも有名だが、妻子に対しても冷たい人物であったという。
内政面においては1885年、社会主義や社会民主主義の派閥などが統一されてベルギー労働党が結成され、社会不安が増大する一方で、国民から普通選挙を求める声が上がった。このため1893年、成年男子に限る普通選挙法が制定された。
1909年、75歳で崩御。後を弟フランドル伯フィリップの子アルベール1世が継いだ。
|
|
|