ヘンリー・モートン・スタンリー
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ヘンリー・モートン・スタンリー(Sir Henry Morton Stanley, 1841年1月28日 - 1904年5月10日)は、アメリカの探検家、ジャーナリスト。アフリカの探検、またデイヴィッド・リヴィングストンを探し出した人物として有名。アフリカの植民地化を推し進め、コンゴ自由国の設立に貢献した。
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[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
北ウェールズの田舎に私生児として生まれる。幼名はジョン・ローランズ。父親が2歳の時に亡くなり、母親が彼の世話をしなかったために、15歳で脱走するまで救貧院で育つ。18歳で船の客室係としてアメリカに向けて出発し、ニューオーリンズに着く。商人ヘンリー・スタンリーのもとではたらくようになってその名をもらった。アメリカの市民権を得て南北戦争に従軍後、新聞記者となる。政府軍とインディアンの戦い、イギリスとエチオピアとの戦いの記事が評判となり、従軍記者として頭角を現した。
[編集] リヴィングストン探索
1869年10月、ヨーロッパ滞在中のニューヨーク・ヘラルドの経営者であるジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアに電報で呼び寄せられ、リヴィングストン捜索を依頼された。莫大な資金提供と、発見が成功した際の報奨金を約束されたことから承諾。スタンリーはただちに出発したが、他の取材のためパレスチナ、エジプト、インドなどを訪れていたため、タンガニーカ湖岸のウジジにたどり着いたのは1871年11月10日であった。
スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇し、従者に導かれて本人と対面した。骸骨のようにやせ衰えた姿を見てスタンリーが発した「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか」("Dr. Livingstone, I presume.")のセリフは、のちにイギリスで思いがけず人と対面した時の挨拶として使われるようになるほど、劇的なエピソードとして伝えられた。2人はタンガニーカの北端までの探検を行うなど、4ヶ月をともに過ごした。スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望んだ。しかたなく、スタンリーは1872年3月15日、イギリスへ向けて旅立ち、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送った。
1873年にリヴィングストンが死ぬと、ナイルの水源の探求の遺志を継いだスタンリーは、ルーウェンゾリ山脈にある水源を発見し、19世紀の論争にはほぼ決着を付けた。また、3年近い歳月をかけてアフリカ大陸中央部をインド洋岸から大西洋岸まで横断した。
[編集] コンゴ自由国
ベルギー国王レオポルド2世が設立したコンゴ国際協会よって1879年にスタンリーはコンゴへと派遣された。スタンリーはアフリカへと旅立った時点ではレオポルドの意図を完全には知らされていなかった。彼はコンゴに向かう途中に受けた電報でコンゴ国際協会の株主がレオポルド1人になったことを知らされ、レオポルドの家臣から以下の計画を説明された。コンゴ地域の黒人部族をまとめて連邦を結成し、レオポルドをその統治者として推戴せよというのである。レオポルドはかなり開き直って「王は、一私人としてアフリカに領地を所持せんと望むにすぎぬ。ベルギー国は植民地も領土も欲しない」と断言していた。スタンリーはこのようなレオポルドの行為が黒人たちに文明の光をもたらすと信じてこれに全面的に協力することにした。
しかしスタンリーはコンゴで苦心惨憺した。単なる探検ではなく植民地の建設なので、大人数の部下を動かして拠点を築き、密林や沼地に道路を通し、谷に橋を架け、後にコンゴの首都となるレオポルドヴィル(現キンシャサ)の原型を建設したのが1881年の末、アフリカに来てから2年以上もかかってしまっていた。病気と事故が多くの隊員の命を奪い、給与や待遇の問題で始終ゴタゴタした上に、ベルギー本国にいるレオポルドが煩く口出してくるのにうんざりした。しかしその間にも現地の首長たちとの「条約」を結んで彼等を「コンゴ国際協会の統治下」に置いていく。例えば毎月一定量の布と引き換えに拠点建設用の土地と「統治権」を譲渡させ、開発を約束するとかである。相手がそのことの意味を理解していたか否かは問うまでもない。
こうしてコンゴの現地ではスタンリーが仕事を続けていたが、部下との折り合いが悪く、健康を崩したりしたため一時は辞めようとした。しかし、レオポルドに引き留められた彼は、コンゴ河口から奥地の「スタンリー瀑布」まで道路を通し、アフリカに来てから5年かけて40の拠点を設定、コンゴ各地の首長たちと約400の保護条約を結んで、これらの地域をコンゴ国際協会の統治下に置くことに成功した。
そして1884年11月、ビスマルクの主催による「ベルリン会議」が開催されるに至り、スタンリーも出席した。その結果、コンゴ地域はレオポルドとフランス・ポルトガルによって分割されることが決定し、レオポルドのコンゴ国際協会の統治する地域は「自由貿易地域」に設定された。さらに1985年8月1日、「コンゴ国際協会」が廃されて本格的な行政機構「コンゴ自由国」の設立が宣言され、ベルギー国王レオポルド2世がその元首を兼ねることとなった。
[編集] その後
1887年にはエジプト南部でマフディー派の抵抗運動のために孤立させられた総督の救出に派遣され、この間アルバート湖周辺の探索も行なった。1890年にウェールズ出身の画家ドロシー・テナントと結婚、1892年にはアメリカ国籍からイギリス国籍に戻った。1895年には下院議員となり、1899年にはサーの称号を受けた。1904年、ロンドンで死去した。
[編集] 外部リンク
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Works by Henry Morton Stanley
- How I Found Livingstone, by Henry Morton Stanley, available freely at Project Gutenberg
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