ロバート・プラント
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ロバート・アンソニー・プラント(Robert Anthony Plant, 1948年8月20日 - )は、イギリスのロックシンガー。レッド・ツェッペリンのヴォーカリストとして有名である。レッド・ツェッペリン時代のニックネームは「パーシー」。
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[編集] 経歴
[編集] レッド・ツェッペリン加入以前
その経歴は「バンド・オブ・ジョイ」を含む様々なバンドで始まった。初期の活動は商業的に成功しなかったが、パワフルなヴォーカリストとしての評判はすぐに広まった。ヤードバーズの分解に直面し、新バンドのヴォーカリストを捜していたジミー・ペイジは、テリー・リードの紹介によりバーミンガムで「ホブストウィードル」のシンガーとしてステージに立つプラントに出会う。ペイジはその歌を聴き即座にプラントに興味を抱き、自宅へと招待(ペイジによれば、これは「人間性の確認」。桁外れの声量と音域、まれに見る美貌の持ち主であったにも関わらず、当時無名に近かった為、人間性に問題でもあるんじゃないかと不安になったのだとか)。新バンドのサウンド・アイデアを語り合ったのち、バンドを組むことを決める。同時にプラントからジョン・ボーナムを推薦され、更に当時既にアレンジャーとして名を成していたベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加えた四人は、幾つかのセッションを経た後、「ニュー・ヤードバーズ」としてツアーを開始。プラントの高音ボーカルにペイジの革新的ギタープレイが絡み、ジョンジーのファンキーなベースライン、そしてボンゾのへヴィなドラムスが加わった「ニュー・ヤードバーズ」はスカンジナビア・ツアーの後、その名をレッド・ツェッペリンと改める。これで70年代を席巻することになるビッグバンドが誕生した。
[編集] レッド・ツェッペリン活動期
レッド・ツェッペリンのフロントマンとして、プラントはまさに理想的な人物であった。ジャニス・ジョプリンからハウリン・ウルフ、ウィリー・ディクソンまで歌いこなす広い声域に、ボンゾのへヴィなドラムス、ペイジの大音量ギターにも負けない声量、更に金髪・長身痩躯の恵まれたルックスを併せ持ち、ステージ・パフォーマンスにも華があるプラントは、ペイジの期待した「まったく新しいロックの姿」を彼の思い描いた以上に体現していたと言っても過言ではない。長い金髪を振り乱して歌う姿はロックンロールにおけるフロントマンの概念を変えてしまった。また、プラントはバンド発足当時弱冠19歳であった事実も付け加えておかねばならないであろう。
これほどの才能が集まったにも関わらず、その派手な外見、オフ・ステージでの悪ふざけから、当時彼らを認めないものは多く、特にローリング・ストーン誌は「イギリスのレモン絞り」と呼び、ほとんど彼らを相手にしなかった。60年代末、まだまだロック・ブルースはアメリカのものであると思われており、アメリカ・メディアにとって彼らは「黒人音楽を利用したイカサマバンド」以外の何者でもなかったのである。しかしながら、彼らの作り出す「まったく新しいロック」はアメリカのオーディエンスに熱烈に歓迎された。知名度のある「ヤードバーズ」の名を棄て、まったく無名の「レッド・ツェッペリン」として初のアメリカ上陸を果たした彼らは当初の他バンドの前座という立場から、瞬く間にヘッドライナーとして成長を果たす(ジョンジーはこの時のボストン・ティーパーティーでのギグを彼の人生におけるベストライブとして挙げている)。高音ボーカルに大音量のへヴィなサウンドが絡む彼らの「まったく新しいロック」は「ハードロック」と呼ばれるようになり、そのセールス、観客動員数もメディアにとって「インチキ」と無視できない存在となった。
しかしながら、過酷なツアー生活や奔放なライフスタイルは徐々にメンバーの心身を蝕んでゆくこととなる。周囲では暴力事件や麻薬常用などが後を絶たず、健康上の理由や事情聴取などでツアーがキャンセルされることもしばしば起こるようになった。1975年8月4日にはギリシャのロードス島でレンタカーを運転中に交通事故に遭い、75/76年ツアーが中止されることとなる(その事故以来、「死にかけて」(『フィジカル・グラフィティ』)を歌うことに躊躇を感じるようになったとされる)。また、プライベートでの不幸も多く、1977年のアメリカ・ツアー終盤には息子のカラックをウィルス感染症で亡くしている。そして1980年のジョン・ボーナム死去でツェッペリンはその活動の幕を閉じる。
[編集] 解散後とソロキャリア
プラントはレッド・ツェッペリン解散後の80年代ソロキャリアを成功させる。ハードロックに別れを告げ、独特のスタイルを志向した。82年のデビューアルバムから90年までの各アルバムは全米トップ5に入り、アリーナクラスでのツアーも盛況であった。しかしながら、ソロキャリアにおいてのレッド・ツェッペリン楽曲、特に「天国への階段」は過去の栄光を象徴するためか、歌詞の出来が気に入らないとしてライブ演奏を嫌っており、滅多に演奏をしていない。1984年の2月には日本でコンサートツアーを行った際にも、新バンドからの曲ばかりであった。プラントはレッド・ツェッペリンとしての過去に誇りを抱きつつも、その過去に縛られることを良しとしなかったのである。その後もプラントはブルース、フォーク、アフリカの民族音楽など様々な音楽に関心を示し、ロックやポップと遠ざかった1993年のアルバムフェイト・オブ・ネーションズでは初めて商業的に芳しくない結果となっている。
1994年にはペイジと共にペイジ・プラントとして活動、後にペイジとは道を違えるも、2001年からはロバート・プラント & ストレンジ・センセイションとして精力的に活動を続けている。
- *「イギリスのレモン絞り」について:これはプラントが「胸いっぱいの愛を」「幻惑されて」などの間奏パートでよく歌った「レモン・ソング」のフレーズの一部「俺のレモンを絞って(=性行為の暗喩)」を実際の乱痴気騒ぎになぞらえて言ったもの。「女好き、パーティー好きの軽薄なイギリス人」といった意味合いであると思われる。プラント自身は妻子持ちであったため、ツェッペリンの乱行に関する噂を一切否定している。プラントによれば「自分たちはイエスみたいにライブが終わったら部屋に籠って音楽を聴いていた」らしい。
[編集] 歌唱法
プラントは桁外れの声域でまたたく間に最高のロックボーカリストとして認識され人気を得た。特に初期の異常なまでの金属的な高音とシャウトはハードロックのシンボルとして、後のロック・ボーカリストたちに多大な影響を与えた。ジミー・ペイジをして「もし声帯を使ったオリンピックみたいなものがあれば、間違いなく全種目金メダル」と言わしめた程である。 しかしながら長いツアー生活による不摂生により喉を痛め高音は出なくなり、現在では、味のある歌唱法を持ち味にしている。
歌唱法はスモール・フェイセズのスティーブ・マリオットによる影響が非常に強い。プラントは彼のファンで彼のステージを追いかけていた時期がある。彼らの1stアルバムのYou Need Loving(1966)を聞けば、Whole lotta loveとの相似性に驚くだろう。ペイジもまたマリオットから影響を受けている。
因みに、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズはプラントの声が余りお気に入りではない様子で、「俺の耳には些かアクロバットじみて聞こえる」とのこと。
[編集] ステージ・パフォーマンス
[編集] 70年代を代表するセックスシンボル
プラントはその華麗な美貌とステージパフォーマンスから70年代を代表するセックスシンボルと称された。特に70年代前半のステージでは女性もののブラウスやインド・中近東風の衣装を好んで纏い、シャツの前をはだけて歌う姿は、その金色の長髪とあいまって「ロックの美神」「男から見てもセクシーな男」と言われた程。
[編集] 初期
68年から69年ごろの初期のステージではコードを持ってマイクを振り回すパフォーマンス(フランスでのTV出演時の「コミュニケーション・ブレイクダウン」などで確認可能)を好んで行っていたが、危険だと判断したのか、その後は余り見られなくなった。また、中近東風の衣装や女物のブラウスなどは見受けられず、普通のシャツやジーンズ(つまり普段着)をステージ衣装にしていた。
[編集] 中期
70年前半から衣装が徐々に派手なものに変わって行き、それに伴ってステージ・パフォーマンスも派手になってくる。恐らく70年代前半のステージで最もよく見かけるのは、片足に重心をおいて左手でマイクをつかみ右手でコードをつかんでリズムをとっている姿であろう。また、「天国への階段」での照明をうけてしっとりと歌う姿や、公式映像には残っていないが、「アキレス最後の戦い」の後半部分でジミー・ペイジとギターとボーカルで掛け合いをするのと同時にお互いの髪が交差するように首を振るパフォーマンス(1977年シアトルが、演奏は酷いがパフォーマンスは秀逸)は鳥肌ものである。その他プラントの、特に中期から後期前半のパフォーマンスは、ジミー・ペイジのダークなイメージとの対比なしに語ることは出来ない。ジミー・ペイジがツェッペリンの「闇」を、プラントがツェッペリンの「光」の部分をステージで(些か過剰に)演出することによって、ツェッペリンはその神秘性を高めていたのである。
[編集] 後期、解散後と後進への影響
解散直前からソロキャリアにかけてはその様な過剰な演出は見られなくなり、よりオーソドックスなロック・スターらしいルックス、パフォーマンスに変わっていく。初期・中期におけるプラントのルックス、ステージパフォーマンスはデヴィッド・カヴァデール(元ディープ・パープル、ホワイト・スネイクのボーカリスト)やレニー・ウルフ(キングダム・カムのボーカリスト)など、数々のフォロワーを生んだが、本人は現在余り誇らしく思っていないようで、「馬鹿みたいな格好をして、馬鹿みたいなことをしてた」と振り返っている。その為か自身のフォロワー達を快く思っておらず、特にデヴィッド・カヴァデールを「デヴィッド・カバーバージョン」と呼んで嫌悪しており、また、その話題を持ち出されると「自分にとって無意味な輩の話はさせないでくれ!」と語気を荒げる程だったとも伝えられている。ちなみに90年代にプラントと共演したアメリカの女性シンガーソングライタートーリ・エイモスによれば、プラントを電話の際「あら?デビッドなの?」と言ってからかうと本気で激怒したそうだ。
[編集] 歌詞世界
[編集] 最初期
最初期における彼の作詞能力は彼の歌唱力と比べて決して高い水準にあるとは言えず、「胸いっぱいの愛を」(『レッド・ツェッペリン II』)、「レモン・ソング」(『レッド・ツェッペリン II』)に代表されるようなブルースからのあからさまな盗作や「ユー・シュック・ミー」(『レッド・ツェッペリン I』]])、「君から離れられない」(『レッド・ツェッペリン I』)などのカバーが主であったが、『レッド・ツェッペリン III』から徐々に本格的な作詞に着手するようになり、『レッド・ツェッペリン IV』の「天国への階段」でその頂点を極めることとなる(しかしながら、本人は「天国への階段」を頂点とは考えておらず、歌詞に不満があると発言している)。
[編集] 初期~中期
プラントはファンタジーを愛好し、特にJ・R・R・トールキンの著書、主に『指輪物語』に大きな影響を受けた。その影響は「限りなき戦い」(『レッド・ツェッペリン IV』)、「ランブル・オン」(『レッド・ツェッペリン II』)、「ノー・クォーター」(『聖なる館』)など、初期から中期にかけての楽曲に於いて顕著に見られる。また、ケルト民話や北欧神話に対する造詣も深く、「移民の歌」(『レッド・ツェッペリン III』)、「流浪の民」(『フィジカル・グラフィティ』)などの歌詞世界に影響を与えている。この様に、初期から中期にかけての彼の作詞テーマは神秘主義、ファンタジー色が濃いが、妻に向けた「サンキュー」(『レッド・ツェッペリン II』)や、初恋を歌った「テン・イヤーズ・ゴーン」(『フィジカル・グラフィティ』)、ファンに感謝を捧げた「オーシャン」(『聖なる館』)、愛犬(名前は「ストライダー(馳夫)」。『指輪物語』のアラゴルン王の別名から)に向けた「スノウドニアの小屋」(『レッド・ツェッペリン III』)など、ロマンチックな面も見られる。また、中期のみ「祭典の日」(『レッド・ツェッペリン III』)、「ダンシング・デイズ」(『聖なる館』)、「ザッツ・ザ・ウェイ」(『レッド・ツェッペリン III』)、「カリフォルニア」(『レッド・ツェッペリン IV』)など70年代的な作風にも挑戦している。
[編集] 中期~後期・解散後
中期から後期にかけては作詞家として円熟、神秘主義・ファンタジー色は薄れてゆき、「一人でお茶を」(『プレゼンス』)、「アイム・ゴナ・クロール」(『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』)、「オール・マイ・ラブ」(『イン・スルー・ジ・アウトドア』)など身近な事象に対する心の揺れを表現するようになる。また、ペイジとプラントの音楽体験に対する情熱は、アフリカの民族音楽にその関心を向け、共に後期の傑作「カシミール」(『フィジカル・グラフィティ』)を生むこととなる。
また、解散後では1994年のペイジ・プラントの「ノー・クォーター」はモロッコでの民族音楽の影響が大きい。
[編集] こぼれ話
- 映画『あの頃ペニー・レインと』で、主人公がツアーを共にするバンドのギタリスト、ラッセル(ビリー・クラダップ)の台詞「俺は黄金の神だ!!(I Am The Golden God!!)」は、プラントがロサンゼルスのハイアット・ホテル(通称「ライオット・ホテル」)のテラスから実際に叫んだものだという。当時ロック・ライターだったキャメロン・クロウが耳にし、後に映画で使用したのだとか。
[編集] ディスコグラフィ
- 『11時の肖像』 - Pictures at Eleven (1982)
- 『プリンシプル・オブ・モーメンツ』 - The Principle of Moments (1983)
- 『ザ・ハニードリッパーズ』 - The Honeydrippers: Volume One (1984), with Jimmy Page
- 『シェイクン・アンド・スタード』 - Shaken 'n' Stirred (1985)
- 『ナウ・アンド・ゼン』 - Now and Zen (1988)
- 『マニック・ネバーナ』 - Manic Nirvana (1990)
- 『フェイト・オブ・ネーションズ』 - Fate of Nations (1993)
- 『ノー・クオーター』 - No Quarter (1994), with Jimmy Page
- 『ウォーキング・イントゥ・クラークスデール』 - Walking Into Clarksdale (1998), with Jimmy Page
- 『ドリームランド』 - Dreamland (2002)
- 『マイティ・リアレンジャー』 - Mighty Rearranger (2005), with Strange Sensation
[編集] 外部リンク
レッド・ツェッペリン |
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ジョン・ボーナム - ジョン・ポール・ジョーンズ - ジミー・ペイジ - ロバート・プラント |
オリジナルアルバム: レッド・ツェッペリン I - II - III - (IV) - 聖なる館 - フィジカル・グラフィティ - プレゼンス - 永遠の詩 (狂熱のライヴ) - イン・スルー・ジ・アウト・ドア - 最終楽章 (コーダ) |
その他のアルバム: ボックスセット - ボックスセット2 - リマスターズ - BBCライヴ - 伝説のライヴ |
映像: レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ - レッド・ツェッペリン DVD |
楽曲: 「限りなき戦い」-「天国への階段」-「カシミール」 |
関連事項: ピーター・グラント - スワンソング・レコード |
カテゴリ: イギリスのミュージシャン | 1948年生 | レッド・ツェッペリン