ロメダ霧島
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ロメダ霧島(ロメダ きりしま、9月16日 - )は、日本のタレント、歌手、役者。東京都出身。AB型。クラブ歌手や戸川昌子の付き人を経てタレントに。個性派の役者としても活動。アンティーク着物や昭和ブームなどをサブカルチャーシーンから流行らせた一人でもある。
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[編集] 来歴・概要
大和撫子(女装)の出で立ちと袴姿などの日本男児(男装)という 対照的なスタイルでパフォーマンス活動する歌手。 歌謡曲やシャンソンカンツォーネと軽妙なトークに大道芸と芸の幅が非常に広いエンターティナーでもある。
二歳の時に父親を亡くし、病気がちな母と二人で親戚の家で暮らすなどして貧しい幼少期を過したという。富士短期大学在学中、二度の交通事故に遭い記憶喪失になり、顔もグチャグチャになる。中退後、サンドイッチマンなどを得て、見世者としてキャバレーやストリップ劇場の幕間に出演するという経緯の持ち主。当時は、イロモノ扱いの為、顔に物を投げつけれれたり、酷い時には、酔ったお客が乱入し長い黒髪をハサミで切られたり、ビール瓶で殴りかかられたりと さまざな苦汁を舐め乗り越えてきているが、キャバレーや劇場が衰退して数が減っている今日では、そこに入り込める数少ない若手エンターティナーとして次第に話題を呼び、フジテレビのニュース番組で密着取材などが放送され反響を呼び注目されるようになった。この放送の後ぐらいから、レギュラーでテレビ出演をしたりコラムの連載などするようになる。またサブカルシーンにも頻繁に登場し、チャリティーイベントの開催や司会やショウなどの展開をしはじめる。自身のホームページのプロフィールによると600本以上は司会をしている模様。ロックミュージシャンのライブ、演歌、アイドル、講釈、ロック、漫才、ストリップ、クラブシーン、ゴシック系、ビジュアルとどのジャンルの、どの世代のイベントに出演させても好評を博す存在感の司会は圧巻である。当時渋谷で「ロメダ霧島ナイト」という一晩中ロメダ霧島のショウがみれるイベントが企画され、ロメダ霧島のスタイルを真似たファンの女子が大量に客席に訪れ北海道からも来た子もいたという。近年に流行した「大正ロマン着物」「昭和」ブームの先駆者的存在として、ロメダ霧島の提唱するメイク・着付けの事が海外でも話題となり、ロシアTVや海外の新聞やフランスの映画をはじめ、本場ハリウッドからも取材にくるなど、着物コーディネーターとしても活躍している。
1994~95年頃 DJのサトシトミイエに「君には素敵な才能があるよ」と言われた事で、少しずつ表舞台に出るきっかけとなっていったと、先日のトークショウで語っていた
1998年 NTTのフリーペーパーのお部屋紹介コーナーで、まだ当時無名のクラブ歌手の霧島と愛犬と部屋が紹介されている。この幻の冊子が現在ファンの間で高値で取引されているという。
2000年、作家でシャンソン歌手の戸川昌子が盛り場巡業中の彼の素質を見抜き「ロメダ霧島」と命名、それまで弟子を取らなかった戸川昌子の一番の秘蔵っ子として、本格的にシャンソンを学ぶ為付き人をしながら下積みを開始。
2003年、渋谷でのイベント出演中のロメダ霧島を映画監督の斉藤玲子が「一億人に一人の逸材」と一目惚れし役者としてスカウト。武藤起一プロデュースの作品(アニムスアニマ)により銀幕デビュー。この映画で霧島は、ドラァグ・クイーン役でストーリーテラー的な存在。また、この映画以外に斉藤玲子監督の「ノーパンツ・ガールズ」でも、そのコミカルな存在感が一際目立つ。
2004年からは、ファンを対象に高円寺でCDショップと喫茶店が併設した空間で音楽会(インストアライブ)を毎月行っている。
[編集] 映画
アニムスアニマ(2003年 斉藤玲子監督)
ノーパンツ・ガールズ外伝(2004年 斉藤玲子監督)
[編集] 一人芝居・トークショウ
街のともしび(2000年)
赤線最後の日(2000年)
タイムマシーンに乗って(2001年)
東京の花売り娘 (2001年)
オイルショックがやってきた (2001年)
食卓 (2002年)
トークショウ01詳細不明(2001)
トークショウ02~三種の神器~(2002)
トークショウ03 詳細不明(2003)
トークショウ04~ドメスティックバイオレンス~(2004)
トークショウ05~アニムスアニマ前夜祭~(2005)
[編集] 出演番組
ニューススピーク(フジテレビ)
クラブザパラダイス(CS)レギュラー
トゥナイト2(テレビ朝日)
インディー上手(日本テレビ)