ヴィクトリア (ドイツ皇后)
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
ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(Victoria Adelaide Mary Louise、1840年11月21日 - 1901年8月5日)は、イギリス女王ヴィクトリアの長女、第一王女でドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世の妃。ヴィルヘルム2世の母。愛称ヴィッキー(Vicky)。
[編集] 生涯
ヴィッキーは大変な優等生で、父のアルバートから優れた知性を受け継いでおり、アルバートにとって大のお気に入りの娘になった。ヴィッキーは豊かな才能に恵まれており、もし彼女が男性に生まれていたら偉大な君主となった可能性があるという説もある。彼女の資質については、アルバートも「あの子の心は子供のように純粋で、考える事はまるで男性のようだ」と書いているほどだった。
ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公国出身の父アルバートは、ドイツ統一の夢をかなえるべく、長女をプロイセンのフリードリヒ王子(後のドイツ皇帝フリードリヒ3世)に嫁がせた。1851年にロンドン万国博覧会を訪れたフリードリヒ王子を、ヴィクトリア女王達は温かく歓迎した。ヴィッキーは当時10歳とはいえ溌剌とした楽しい女の子で、相手の気をそらさず、当時19歳であったフリードリヒ王子をよく笑わせたという。それから2人は親しくなり、文通をするようになった。
1855年に再びロンドンを訪れたフリードリヒ王子から、ヴィッキーは結婚の申し込みをされた。彼女はフリードリヒ王子に恋しており、すぐに承諾した。1857年にヴィッキーとフリードリヒ王子は婚約し、1858年1月25日に結婚した。その後、夫との間に4男4女(長男はヴィルヘルム2世、三女ゾフィー・ドロテアはギリシャ王コンスタンティノス1世と結婚する)をもうける。
幼少より聡明で父親の影響を受け、自由主義者だったため、ビスマルク及び舅ヴィルヘルム1世と対立する。義父は1888年に死亡したが、その時に夫は既に癌を患っており、わずか3ヶ月しか帝位につくことができなかった。更に晩年には息子ヴィルヘルム2世が植民地の拡大を図って母国イギリスとの対決政策を追求するようになり、彼女を苦しめる事となった。戦争を目前にしたときには、両国を上手く取り持ち戦争を回避するなど、彼女の存在はその重要性をましていた。 母ヴィクトリア女王とはもっとも親交があり4000通もの手紙をやり取りしていた。1901年、母と同じ年に崩御した。
[編集] 子女
夫フリードリヒ3世との間には以下の四男四女が生まれた。
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルベルト・ヴィクトル(1859年 – 1941年、ドイツ皇帝)
- ヴィクトリア・エリーザベト・アウグステ・シャルロッテ(1860年 – 1919年、ザクセン=マイニンゲン公ベルンハルト3世妃)
- アルベルト・ヴィルヘルム・ハインリヒ(1862年 - 1929年)
- フランツ・フリードリヒ・ジギスムント(1864年 - 1866年)
- フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ・ヴィクトリア(1866年 – 1929年)
- ヨアヒム・フリードリヒ・エルンスト・ヴァルデマール(1868年 - 1879年)
- ゾフィー・ドロテーア・ウルリーケ・アリス(1870年 – 1932年、ギリシャ王コンスタンティノス1世妃)
- マルガレーテ・ベアトリス・フェオドラ(1872年 – 1954年、フィンランド王ヴァイノ1世(ヘッセン選帝侯家家長フリードリヒ・カール)妃)
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