オットー・フォン・ビスマルク
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代: | ドイツ帝国初代首相 |
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任期: | 1871年–1890年 |
後任: | レオ・フォン・カプリヴィ |
生年: | 1815年4月1日 |
没年: | 1898年7月30日 |
政党: | |
本職: | 外交官 |
オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク(Otto Eduard Leopold von Bismarck、1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、プロイセン王国の首相 (Preussischer Ministerpräsident: 在任1862年 - 1890年)、1871年からはドイツ帝国初代宰相 (Reichskanzler、首相とも訳される) を兼務する。
プロイセン王ヴィルヘルム1世の右腕として鉄血政策を打ち出し、普墺戦争や普仏戦争に勝利して、1871年にプロイセン王ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に持ち上げ、ドイツ統一の立役者となる。君主主義の保守的な政治家で1880年代に台頭し始めた社会主義運動に対して厳しい姿勢を取った一方で、老齢年金、健康保険、労災保険などの各種の社会保障制度を整えたことでも知られる。 伊藤博文がもっとも印象に残る人物の一人にあげた政治家でもあった。
目次 |
[編集] 生誕からドイツ統一まで
1815年、ベルリン北西のシェーンハウゼン (Schönhausen) の大地主の貴族(ユンカー)の子として生まれる。1832年にゲッティンゲン大学に入学、翌年ベルリン大学に移り、法律を学ぶ。1836年から国家の法律行政に関わる。1838年に退職して軍隊に志願する。1845年にはシェーンハウゼンに戻り、ビスマルク家の家督を継ぐ。1847年にヨハンナ・フォン・プットカマーと結婚し、1849年にプロイセン国会の下院議員に当選する。
その後、1851年のフランクフルトのドイツ連邦議会 (Bundestag des Deutschen Bundes) へプロイセン代表として派遣され、ロシア公使、フランス大使を歴任する。外交経験からユンカーの偏狭な精神を脱却し国際的な視野を身につける。
[編集] ドイツ統一へ
1862年には新国王ヴィルヘルム1世によってプロイセン王国の首相兼外相に任命される。この時、ヴィルヘルム1世と議会は兵役期間を2年にするか3年にするかで対立し、ドイツ統一を目標とするヴィルヘルム1世は議会を説得するためにビスマルクを起用したのである。期待に応え、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせた。この時にビスマルクは「民主主義や多数決は誤りであり、現在の大問題(ドイツ統一)は、鉄(大砲)と血(兵隊)によってこそ解決される。」という演説(鉄血演説)を行い、以後鉄血宰相 (独: Eiserner Kanzler、英, Iron Chancellor) の異名をとる。
[編集] 対デンマーク戦争
鉄血政策を大きく進め、その一方で国際的に良好な関係を作る事に腐心し、イタリア、ロシアに接近し、オーストリアと同盟を結び、同盟関係を背景に1864年にデンマークと争い、勝利してシュレースヴィヒ=ホルシュタインを奪った (第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。この時の陸軍参謀総長が後に有名となるモルトケであり、これ以降も政治・外交のビスマルクと名参謀総長のモルトケのコンビは対立しつつも上手く回転していく。
[編集] 普墺戦争
対デンマーク戦争に勝利して国民の支持も取り付けたビスマルクは、更に手腕を振るうようになる。デンマークから奪った地域の領有権を巡ってオーストリアと対立すると、参謀総長モルトケの入念な準備を背景に1866年6月オーストリアに宣戦布告、7週間で勝利する (普墺戦争)。その一方でオーストリアとの講和条約であるプラハ条約では寛大なところを見せて、オーストリアの決定的な反感を買わないようにも気を配っている。オーストリア主導のドイツ連邦 (Deutscher Bund) は解消してドイツ圏におけるプロイセンの主導権は確たるものとなる。
[編集] 普仏戦争
1867年、普墺戦争の勝利をもとにビスマルクは、プロイセンと北ドイツ諸邦を北ドイツ連邦にまとめ上げ、自身は北ドイツ連邦の宰相 (Bundeskanzler des Norddeutschen Bundes) となり、来たるべきドイツ統一への第一歩を踏み出す。フランスのナポレオン3世は、プロイセン王家に繋がるレオポルト公のスペイン王位継承問題に関してフランスの危険を感じてプロイセン国王ヴィルヘルム1世に永続性のある保証を要求してきた。ビスマルクはこれを逆用して世論を煽り(エムス電報事件)、1870年7月、フランスをプロイセン宣戦布告させることに成功した。1ヵ月半後セダンの戦いでナポレオン3世を捕虜とし、フランスの第二帝政が崩壊、年明けにはパリを包囲し、いまだパリ砲撃が続く1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿ドイツ皇帝即位し、ここにドイツ帝国の成立が宣言された。
普仏戦争の目的は、「北ドイツ連邦」に属さないバイエルン王国をはじめとする南部諸邦に北との連帯感を持たせ、ドイツ統一を実現する事であった。ビスマルクの目論みは当たり、かつてのドイツ連邦 (Deutscher Bund) のからオーストリアとルクセンブルクを除いたすべての諸侯を、プロイセンを盟主とする新国家のもとに集結させることに成功したのである。
[編集] ビスマルクの内政・外交
ビスマルクは統一ドイツの初代宰相兼プロイセン首相となり、1890年に引退するまで19年の永きに渉ってドイツの更なる発展に尽力する。
内政面についてはカトリックに対する文化闘争を行い、プロイセン的な社会をドイツ全体に広げるようにした。更に当時勢力を拡大していた社会主義者に対する攻撃を強め、ヴィルヘルム1世の狙撃を口実に1878年に社会主義者鎮圧法を制定する。その一方で災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度の制度を整備し、社会主義者から攻撃を仕掛ける口実をなくした。そして、彼が打ち立てた社会国家像は、今日に至るまでのドイツの社会政策の基礎となるとともに、日本の明治憲法体制にも影響を与えた。
国内整備と並行して、国際的にも様々な手を打つ。これまで見てきたように、ビスマルクの戦略的思考はモルトケと同じように事前の周到な準備を元としている。政治家としての周到な準備とはすなわち慎重な外交関係の構築の事である。
フランスを叩きのめした後は、フランスの復讐を懸念するようになる。1873年の三帝同盟・1882年の三国同盟、三帝同盟が崩壊した後の1887年の独露再保障条約と立て続けに同盟を結ぶ。1877年から1878年にかけて行われた露土戦争の紛争を収拾するためにベルリン会議では「公正な仲裁人」と称して、全ての国に対して恨みを買う事を避けてドイツの仲介役としての立場を強調した。
これらの政策の目標は一にフランスを孤立させ、二にそれ以外の国との良好な関係を作り、三にそれらの国と一蓮托生と言った親密な関係を作らない事である。これによりヨーロッパに於いて軽い緊張状態を作り出し、どの国もうかつに動けない戦争の無い状態を作り出そうとした。これがいわゆるビスマルク体制である。
このビスマルクの思惑は図に当たり、ヨーロッパには第一次世界大戦まで続く小康状態が生まれる。後に第一次世界大戦において、その引き金となる三国同盟も、本来はドイツを意図しない戦争から回避させるための同盟であり、統一間もないドイツの安定が目的であったと考えられる。 統一までの戦争政策から一転したこの平和政策の成功からもビスマルクが単純な「鉄血宰相」では無く、極めて柔軟で現実に即した政治家である事が伺える。
[編集] 政界引退
1888年、ビスマルクが長年仕えたヴィルヘルム1世が死去する。
その後を息子のフリードリヒ3世が継ぐが、3ヶ月で死去し、その子のヴィルヘルム2世が後を継ぐ。
この若き皇帝はビスマルクの複雑な外交術が理解できず、単純で直線的な植民地拡大策を欲し、また社会主義者鎮圧法の更新に反対して、ビスマルクと度々衝突し、1890年にビスマルクを解任した。
ビスマルクは自分の領地のハンブルク近郊のフリードリヒスルー (Friedrichsruh) に引退し、1898年7月30日に没した。
ビスマルクを排除したヴィルヘルム2世は単純に力で植民地を奪い取ろうと3B政策を推進してイギリスと対立するようになり、独露再保障条約の更新を拒否してロシアとも対立し、三国協商を形成させ、三国同盟VS三国協商の対立関係を生み、ビスマルクが最も恐れていたドイツ包囲網を形作らせ、第一次世界大戦に於ける敗戦へと向かっていく事になる。
[編集] 爵位
- 1865年 ビスマルク=ショーンハウゼン伯 (Graf von Bismark-Schönhausen)。対デンマーク戦争勝利の功などにより伯爵を授爵。
- 1871年 ビスマルク侯 (Fürst von Bismark)。普仏戦争勝利の功になどにより侯爵に陞爵。
- 1890年 ローエンブルグ公 (Herzog zu Lauenburg)。政界引退にともない、長年の功績により公爵に陞爵。
[編集] 関連項目
- 戦艦ビスマルク: ビスマルクの名を冠した第二次世界大戦時のドイツの戦艦。
- ビスマルク諸島: ビスマルクの名を冠したニューギニア島沖にあるパプアニューギニア領の諸島
- ビスマーク: ビスマルクの名を冠したアメリカの地名。ドイツ系移民が過去に多かった。
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