三菱銀行
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株式会社三菱銀行(みつびしぎんこう、英文名称 : The Bank of Mitsubishi, Ltd.)は、日本の都市銀行である。1996年4月1日に東京銀行と合併し東京三菱銀行に行名変更し、さらに2006年1月1日にはUFJ銀行と合併し「三菱東京UFJ銀行」に行名を変更した。統一金融機関コードは0005。
行章は三菱グループ共通の赤いスリーダイヤであったが、1980年代以降店舗の壁面やキャッシュカードには鳥のマーク(バードマーク)が付いていた(東京銀行との合併後も、旧三菱銀行店舗ではバードマークが残っているところが多かったがUFJ銀行との合併時に撤去されている)。
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[編集] 概要
1880年に郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から分離独立した三菱為換店が始まり。この三菱為換店は一度閉鎖されるが、間もなく第百十九国立銀行の経営を承継。その後幾多の変遷を経て、1919年株式会社三菱銀行が設立された。戦前は三菱財閥をバックに店舗数よりも取引高の方が遙かに大きかったが、戦時統合で主に東京地区の店舗を拡充。1943年に第百銀行を吸収合併したことで名実共に大銀行となった。
戦後の財閥解体に伴い、1948年に千代田銀行へ改名するが1953年に三菱銀行へ戻し、三菱重工業・三菱商事とともに再結集した三菱グループの中核企業、都市銀行上位行として発展してきた。行風は官僚主義的で機動力に欠けるという評価がされることが多い。バブル景気の時期にはそれが幸いして他の銀行の様な無理な融資合戦に参入するのが遅かったため、バブル崩壊後の不良債権が少なく済んだといわれている。ただし、バブル時代の経営姿勢に何も問題が無かったわけではなく、下記の様な変額保険問題を起こしている。
1996年4月1日に東京銀行と合併し、株式会社「東京三菱銀行」となった(存続会社は三菱銀行)。
[編集] 変額保険事件
三菱銀行は、バブルからその後にかけて大きく社会的問題となった変額保険を大々的に進めた中心銀行である。当時の取締役の三木繁光が、この提案融資の旗振り役であった[1]。変額保険は、地価が異常な値上がりを示した時代情勢につけ込んで拡大したもので、ハイリスク・ハイリターンな投資商品であった。変額保険に加入した結果、土地を失ったり、自殺を迫られる高齢者が多数発生し、金融機関の商品説明責任を問う損害賠償訴訟が相次いで起こされた。
この訴訟において、三菱銀行の被害者は226名に上り、全金融機関で最悪の人数である。銀行としては2番目に多い横浜銀行の44人の5倍強、都市銀行の中では富士銀行の38人の6倍近くと、その加害は群を抜いている[2]。
この背景には、もとは米国で開発された変額保険を、アリコジャパンの元社員が三菱銀行に提案した経緯がある。邦銀で最初にこの商品を知った三菱銀行は、同じく三菱グループの明治生命(現明治安田生命保険)と一体となり、販売を押し進めた[3]。事実、明治生命による被害者数は三菱銀行とほぼ同じ224名であり、生保会社では2番目に被害者の多かった生保最大手の日本生命の104人の2倍以上である。
2002年4月23日には東京高裁において、東京三菱銀行、大同生命らを相手取る訴訟で、7000万円の損害賠償命令が下された。
フジテレビドラマ「ビッグマネー!」における「相続保険」問題の描写は、三菱銀行がモデルとされる。
[編集] 沿革
- 1880年(明治13年) - 郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から「三菱為換店」が分離独立。
- 1885年(明治18年) - 三菱為換店閉鎖。従業員は第百十九国立銀行に移籍。
- 1895年(明治28年) - 三菱合資会社銀行部、第百十九国立銀行の業務を継承して設立。
- 1919年(大正8年)8月 - 株式会社「三菱銀行」、三菱合資会社銀行部の業務を継承して設立。
- 1929年(昭和4年)5月 - 三菱銀行、株式会社森村銀行を合併。
- 1940年(昭和15年)10月 - 三菱銀行、株式会社金原銀行を合併。
- 1942年(昭和17年)4月 - 三菱銀行、株式会社東京中野銀行を合併。
- 1943年(昭和18年)4月 - 三菱銀行、株式会社第百銀行を合併。
- 1948年(昭和23年)10月 - 三菱銀行、持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、「千代田銀行」に改称。
- 1953年(昭和28年)7月 - 千代田銀行、再び商号を「三菱銀行」に改称。
- 1979年(昭和54年)1月 - 大阪市の北畠支店で猟銃強盗監禁事件。(三菱銀行人質事件)
- 1993年(平成5年)4月 - 三菱銀行が霞ヶ関信用組合を吸収合併。
- 1996年(平成8年)4月 - 三菱銀行と東京銀行が合併し、行名を「東京三菱銀行」に変更。