上司海雲
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上司 海雲(かみつかさ かいうん 1906年(明治39年)2月15日 - 1975年(昭和50年)1月25日)は昭和の華厳宗の僧侶。
奈良市出身。龍谷大学卒。東大寺で出家、東大寺学園校長、東大寺執事長、華厳宗宗務長等を歴任し、昭和47年華厳宗管長・東大寺206世別当となり、開祖良弁上人の1200年忌をいとなむ。東大寺大仏殿の昭和の大修理のために尽力したが、昭和50年、任期途中で癌で死去。事業は後任の清水公照に引き継がれた。
文学・芸術を愛し、奈良で文化人のサロンを形成したことで知られる。はじめ、大正14年に奈良に移住した志賀直哉(小説家)を中心としたサロン(高畑サロン)が形成され、上司も出入りしていたが、昭和13年、志賀が奈良を去ると、残されたサロンを上司が引き継ぐ形となった。杉本健吉(画家)、入江泰吉(写真家)、須田剋太(画家)などが出入りした。東大寺観音院の住職だったので「観音院さん」として親しまれた。杉本健吉は一時観音院のなかにアトリエを設けることをゆるされ、東大寺や奈良の街角の風景などを描いた。
壺の収集家としても知られ「壺法師」というあだ名もあり、追悼文集は「壺法師海雲」と題された。
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カテゴリ: 仏教関連のスタブ項目 | 僧 (日本) | 1906年生 | 1975年没